・Sr石野思い出あれこれ⑪続・志願者生活-いちばん辛く苦しいのは、本の”プロパガンダ”

 朝の祈りを唱えてからミサに与る。ミサの後は黙想、朝食と続く。朝食には苦手のチーズが頻繁に出て情けなかった。出されたものは何でも食べること、と言われていたので、残すわけにもいかず、ナイフとフォークでチーズを細かく刻んで水と一緒に薬のように飲みこんだ。それを見ていたシスターは止めてもくれず何も言わなかった。でもそのおかげで、今はチーズが食べられるだけでなく、大好きになった。

 朝食が済むと一人ずつ名前を呼ばれて、その日の仕事が割り当てられる。「Aさんはお洗濯」、「Bさんはお掃除」、「Cさんはお台所」、「Dさんはお使い」など。私たちはこれを「お告げ」と呼んでいた。

 ある日、聖パウロ修道会(男子修道会)で印刷され、製本されたカトリック関係の本が私たちの修道院に運び込まれた。それらを普及することによって直接の布教活動をするためだった。黒い布の大きなカバンに入るだけの本を詰め込み、イタリア人のシスターと志願者が二人ずつ一組になってそのカバンを持って出かける。

 一軒一軒家を訪ね、「私たちはカトリックの修道院から参りました。よいご本をたくさん持っておりますので、どうぞ、ご覧になって下さい」と、イタリア人の神父様がローマ字で書いてくださった文章を丸暗記して口に出し、玄関先に本を並べる。たいていの家で本を買ってくださった。こうしてキリスト教の布教につとめた。

 これを私たちは「プロパガンダ」と呼んでいた。私にとってこの仕事は非常に辛く苦しいものだった。重いカバンを下げて歩くことは、まだ若い私にとってそれほど苦にはならなかった。しかし、布教という大切な仕事をしているにもかかわらず、私には行商をしているように思え、また私を見る人からもそのように見られているのではないだろうかという思いが頭に去来し、自分が惨めで、哀れで、情けなかった。修道院が阿佐ヶ谷、実家が阿佐ヶ谷だから知人に会わないわけがない。

 「ごめんください」とお玄関のドアを開けると「ハイ」と言って出てきた人が学校時代の上級生だったり、駅の改札口を出た途端に実家の近くに住んでいる人に出 会ったり、今なら何でもないことだが、その頃の私は顔から火が出そうなほど恥ずかしく、足が動かなくなってしまった。

 それでも夜、綿のように疲れた体を布団の中に横たえた時「今日も一日神様のために働くことが出来た」という感謝と喜び、幸福感が心を満たしてくれるのだった。

( 石野澪子=いしの・みおこ=聖パウロ女子修道会修道女)

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2019年5月31日