・Dr.南杏子のサイレント・ブレス日記㊼ ヘビが目を丸くする

 新型コロナウィルスの感染拡大が続くこの1年、スイスのジュネーブにある世界保健機関(WHO) の記者会見がニュースとして放映される機会が増えた。WHO の紋章には「ヘビが絡みついた杖」が描かれている。ギリシャ神話の医学の神アスクレピオスのシンボルとしてご存知の方も多いだろう。

 では、この杖と並ぶ存在として、医療・医術の象徴として広く用いられるシンボルマーク「ヘビの巻きついた杯」をご存知だろうか? それは、アスクレピオスの娘の一人で、歴史上名前の知られている最古の女性医師と言われるヒュゲイアが持っていた杯だ。

 神話の世界では医神の「父」とともに語られながら、現代では忘れられがちな「娘」の名前を冠した電子書籍『ヒュゲイアの後裔(すえ)女性医師の系譜』(岩田誠著、中山書店)がこのほど刊行された。パイオニアとして医学の道を志しながら、苦難の道を歩んだ女性医師たちの評伝集である。

 洋の東西を分けて取り上げられているのは、古くは古代ギリシャのアテネで産科医療を行ったアグノディケー、日本の大宝律令下に宮廷の婦人科治療に当たった名もなき女性医師らにはじまり、近代以降では世界初の公認女性医師とされるアメリカのエリザベス・ブラックウェル、日本初の荻野吟子、生澤クノらの名前が並ぶ。

 先人たちが生きた時代、国、家庭にはさまざまな違いがある。しかし、共通しているのは、苦難と闘う長い道のりだ。

・男装して診療をしたが女性であると分かり訴追された=アグノディケー
・書物による教育は行われず、口述の技術指導のみだった=大宝律令下の女性医師たち
・女性であることを理由に総計28校から入学拒否された=ブラックウェル
・医学校を出ても東京と埼玉の医術開業試験受験を拒否された=荻野吟子
・医学校で断髪と男装を強いられ、隣室から聴講した=生澤クノ

 本書を通じて私たちは、これでもかというほどに、同じような差別が繰り返された歴史と向き合わされることになる。

 本書の著者は、東京女子医科大学の名誉教授で、医学部長も務めた神経内科医・岩田誠氏。医学部2年の学生を対象にして、岩田氏が十数年にわたって行った講義「女性医師の系譜」の内容をまとめたものだ。医学部長時代、あまたの女子学生たちに「至誠と愛、そしてそれらを実践する勇気」を説かれたという著者ならではの視点に貫かれている。

 最後にもう一つ、本書から歴史的なエピソードを紹介したい。東京女子医科大学で1908年に行われた記念すべき最初の卒業式は、一部の来賓(!)が「女医亡国論」を唱えて大混乱に陥ってしまったのだという。彼らの論旨は、次のようなものだった。

「手術をし、血を流すことに平気な殺伐な女が増え、日本の醇風美俗を壊し、ひいては国家を滅亡に誘う」                           「女は月経という穢れがある。手術室の神聖を冒す」                                               「女は妊娠して仕事を休む。人命を委される医術には不適当である」

 混乱の第1回卒業式から110余年。「ご心配には及びませんよ」と胸を張って先人に報告するためには、社会全体にわたって、なお一層の意識の変革と環境の改善が求められる。一歩間違うと、「女性医師の多い病院は時間が……」などという発言が飛び出しかねない日本の現状は、ブラックウェルも荻野吟子も、ジュネーブのヘビさえも目を丸くしかねない。

(みなみきょうこ・医師、作家: 医学部入試の不正入試事件に5人の女性医師の生き方を重ね合わせて描いた『ブラックウェルに憧れて』=光文社=の執筆では、エリザベス・ブラックウェルの生涯から多くのことを学びました。)

 

 

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2021年4月3日