・Dr.南杏子のサイレント・ブレス日記㊻ 病院と家のはざまで

高齢の患者さんが病気療養のために病院に入院する。そのとき多くの方が口にするのは、「家に帰りたい。こんな所に長くいたくない」という素直な気持
ちだ。スタッフはその言葉を聞きながら、何とか居心地よく過ごしてもらおうと懸命に努める。

 しばらくすると、患者さんの側に変化が訪れる。

 まず、毎日の食事を楽しみにしてくれるようになる(私の勤務する病院は、おいしい病院食の提供を非常に重要視している)。院内で「ひなまつり」や「七夕」、「秋の味覚祭」など季節のイベントや、「室内音楽会」や「映画鑑賞」などを楽しまれる。さらにリハビリを兼ねた体操やゲームなどのレクリエ

ーションにも参加してくださるようになる。やがて、ずっと前からそこに住んでいたかのようにゆったりと生活される。

 そうした患者さんの変化一つ一つに、スタッフは仕事のやりがいを感じるものだ。

 ご家族の面会シーンにも、そうした影響が垣間見られる。

 久しぶりに会うご家族は、患者さんの様子を見て安堵の声を上げる。「お母さん、顔色が随分よくなったね」「こんなに穏やかな顔のお父さん、見たことないよ」と喜ばれる。対する患者さんも、「三度の食事は結構おいしいし、風呂にも楽に入れる。病院の人はみんな優しいよ」と答える。

 私たちスタッフは、そんな患者さんとご家族との交わされる言葉を聞くとはなしに耳にして、限りない喜びを感じる。

 ただ、少し前のことだが、ちょっぴり切なくなる瞬間があった。

 ご家族が「お母さんったら、ニコニコしちゃって。もう、家に帰りたくなくなったんじゃないの」と軽口を叩き、患者さんも「ずっとここがいいよ」と笑顔で応じていた。ところが、ご家族が帰ったあとだ。患者さんが肩をすくめ、そっとスタッフにささやいた。「家に帰りたくないわけがないよね。でも私がこっちにいる方が、家族がニコニコするからね」と。

 そこで思い出したのは、30余年前の私事だ。同居していた祖母が、自ら望んで病院に入院した。見舞に行くたびに祖母は、「病院にいる方が安心だ」と口にしていた。

 いよいよ寿命が近づいた3月の下旬だった。祖母は病室のベッドの上で目をつぶっている時間が長くなった。顔を見せても、ほとんど反応が返ってこない状態だった。

 そんなある日、庭の桜がようやく開いた。祖母に見せたいと思い、咲いたばかりの枝を手折って病室へ持参した。祖母に声をかけても目は固くつぶられたままだった。ふと心に思うところがあり、「桜、持って来たよ」と告げてみた。すると、祖母はほんの一瞬ではあったが、久しぶりにかすかに目を開けてくれたのだ。家の庭の木々や花々を心から愛した祖母の姿がそこにあった。

 人生の終末期を、どこで、どんなふうに迎えるか――。現在では、いろいろな選択肢がある。「何がベストか?」は、簡単に答えが出せる問題ではない。さて、自分自身はどうするのか。桜の咲く季節が近づいてくると、いつもあのときの祖母が思い出されて迷いは尽きないのだ。

(みなみきょうこ・医師、作家: NHKでドラマ化された『ディア・ペイシェント~絆のカルテ』=幻冬舎=は、多くの皆さんにご視聴いただきました。心から感謝申し上げます。終末期の患者たちとベテランの女性医師が在宅医療の場で出会いと別れを重ねる物語『いのちの停車場』=幻冬舎=は映画化が決定し、吉永小百合さん、松坂桃李さん、広瀬すずさん、石田ゆり子さん、西田

敏行さんらが出演、東映系で5月21日から全国で公開されます)

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2021年2月27日