・Dr.南杏⼦のサイレント・ブレス⽇記㊹ いつ・どこで書くのか?

 「医者の仕事もしているのに、いったい⼩説をいつ書くのか?」という質問をよく受ける。

 ⼩説を書く場所は、主に2か所。平⽇は、往復3時間の通勤電⾞の中だ。スマートフォンのおかげで、メールを打つようにどこでも⼩説を書けるようになった。以前から⼩型のワープロ機を使って⾞内で書いてはいたが、⼤進歩だ。

 問題は、座席に座れない場合である。吊⾰につかまると書くことができないので、転ばないように、背中をもたれさせられるコーナーに⽴つか、銀の⼿すりの前に⽴って⼿⾸で体を⽀えられる場所を確保している。それでも、他の乗客から「移動しろ」と⾔わんばかりにグイグイ押されることがある。いつの間にか既得権意識が⽣まれている私は、銀ポールにしがみついて後⽅を空け、「背中側を通り抜けてもらえませんか?」と全⾝で訴える。迷惑をおかけしているとしたら、ごめんなさい、と思いつつ。

 もう1か所は、休⽇に書く場所として、もっぱら娘の部屋を使う。7年前、娘が他県の学⽣寮に下宿してから使われていない部屋だ。きれいに⽚付いている上にテーブルが広く、とても使いやすい。なので休みになると、この部屋にパソコンを持ち込み、娘の⼦供の頃の写真や部活のポスターなどに囲まれながら、平⽇に電⾞の中で書きためたシーンをまとめ上げる。そして休⽇の終わりには、パソコンや資料もろもろを元通りに⽚付けて撤収するのだ。

 けれど、最近は資料も増えてきて、にっちもさっちもいかなくなってきた。なのに「この部屋を執筆部屋にする」と宣⾔するのは気が引ける。というのも、娘は1か⽉か2か⽉に1回帰省し、そのたびに⾃室で過ごすからだ。部屋の使⽤については、まだ娘に既得権がある、と家族全員が認識している。部屋の呼び名もずっと「りりこの部屋」と、娘の愛称のままである。

 ⾃分の部屋がなくなるのは、娘も寂しいに違いない。かつて私⾃⾝も実家から私物が無くなるたびに、⼀抹の寂しさを覚えたものだ。居場所がなくなるような、思い出の品と共に⾃分も捨てられてしまったような――。

 ⺟親の思いを知ってか知らずか、コロナ禍で東京を離れたままだった娘が先⽇、半年ぶりに帰省したときのことだ。「部屋は⾃由に⽚付けていいよ―」と⾔ってきた。ならば、とゴミ袋を⽤意し、娘の使わなくなった物を⼀つ⼀つ⼿に取って考え込んでしまった。着られなくなった洋服にも、よく⼀緒に遊んだバドミントンのラケットにも、すべて思い出が宿っているからだ。

 意外なことに気が付いた。寂しいのは娘ではなく、⾃分だったのだ、ということに。「娘の既得権」というのは、家を離れた娘の思い出の品を⺟親の私が⽚付けられない⾔い訳に過ぎなかった――ということに。

 そんなこんなで、執筆場所だけでもあれこれと悩みながら⼩説を書き続けている。けれど、どんなにいい場所があったとしても、必ずしもスムーズに書き進められる⾃信はない。案外、こうした悩ましい環境と共存していることがスパイスとなり、作品作りに役⽴っているのかもしれない、と思ったりもする。

 5⼈の⼥性医師の⽣き⽅を医学部不正⼊試事件に絡めた最新作『ブラックウェルに憧れて』は、⽇常で感じる違和感の延⻑で書いた作品だ。私の今と共通するのは、⼥性医師の「居場所のなさ」。それが少しでも伝わると嬉しい。

 (みなみきょうこ・医師、作家: NHKでドラマ化された『ディア・ペイシェント~絆のカルテ』=幻冬舎=は、多くの皆さんにご視聴いただきました。⼼から感謝申し上げます。⾦沢を舞台に終末期医療や尊厳死を考える物語『いのちの停⾞場』=幻冬舎=は映画化が決定し、吉永⼩百合さん、松坂桃李さん、広瀬すずさん、⽯⽥ゆり⼦さん、⻄⽥敏⾏さんらが出演、東映系で2021年に全国公開されます)

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2020年11月2日