・Dr.南杏⼦の「サイレント・ブレス⽇記」㉖「♪おお友よ」そんな時…

 忘新年会、挨拶回り、冬のステージ観覧――。いずれも、⽇本の年末年始を彩る⾵物詩だ。昨年末、様々なステージを⽬指す⼈たちを陰で⽀える医師の物語「ステドク」シリーズの取材を兼ねて、ある市⺠合唱団によるベートーヴェンの交響曲第九番演奏会に⾜を運んだ。

 結団から20年以上の歴史を誇るこの合唱団に集う⼈たちは、「歓喜の歌」をこよなく愛し、年末のひのき舞台を⼤きな⽬標にして練習を重ねている。本番約2週間前の通し稽古、開演直前の声出し練習なども⾒せていただき、メンバーの熱気に直接触れる貴重な機会を得た。

 実は、練習を初めてのぞかせていただいた際、メンバーの顔ぶれを⾒て率直に感じたことは、「ご年配の⽅々が多い」ということだった。年の瀬に第九を歌い上げる市⺠合唱団は、全国の多くの都市で活動を続けているが、おしなべて⾼齢化が進んでいるのだという。練習⾒学を通じて親しくさせていただいたこの合唱団も、70歳代のメンバーはざら。80歳を超えた団員も珍しくない。そして皆さん、若々しい歌声を元気に響かせているのだった。

 趣味やレジャーそのものが多様化していることに加え、コミュニティーの構造も変わり、地域に根ざした活動をする若い⼈たちが少なくなっている現状もあるのだろう。ポジティブな側⾯もわすれてはならない。⻑きにわたってコーラスを続けられる健康なメンバーが増えているという幸福な側⾯と、そうしたメンバーを迎え⼊れる仲間たちが仲間として機能しているという地域のあたたかい環境を喜ぶ気持ちにもなる。

 そして迎えた演奏会の本番。⼤ホールのステージでは、頼もしい若⼿の交響楽団による第三楽章の演奏が終わった。演奏者の背後で合唱団のメンバーが静かに⽴ち上がり、ホール全体に歌声を響かせる。

 ♪おお友よ、このような旋律ではない! もっと⼼地よいものを歌おうではないか もっと喜びに満ち溢れるものを

 「歓喜の歌」はほとんどがシラーの詩だが、最初の3⾏だけはベートーヴェンが作詞したものだ。「もっと⼼地よいものを」「もっと喜びに満ち溢れるものを」――という歌詞は、それぞれの年齢を超えて、常に⾼みを⽬指す合唱団メンバーの思いと姿勢に重なるものがある。

 約100⼈の思いとハーモニーを合わせた歌声が⼤ホールの客席を包み、観客の⼼を魅了したことは⾔うまでもない。歌声に⼼から満⾜して会場を後にした。

 ただし、舞台上ではハプニングがひとつあった。第四楽章の終盤近くで、ある男性メンバーが、ステージ上で倒れたのだった。

 閉演の拍⼿が鳴りやまぬ中、私は急いで舞台袖から救護に回った。幸いなことに男性は、すみやかに意識を回復しており、転倒時に頭などを打った様⼦もない。念のため救急⾞で病院に搬送することになったが、⼤事に⾄ることはなかった。

 読者の皆さんに、得意になって武勇伝をお伝えしようと⾔うわけではない。何しろ、私は何もしなかった。なぜなら、すでに男性のもとへは、客席にいた医師や看護師が6⼈も駆け寄って⼿当てを⾏っていたのだ。いるところには、いるものである。

 年齢を超えて、さらに⾼みを⽬指そうとしているアクティビティーの⽮先、少しでも体調を崩したり、気分が悪くなったりしたら、遠慮なく声をあげてほしい。本⼈から「ヘルプ」のサインが発せられた時、あなたを助ける意思を持つ⼈は、意外と近くにいるはずだ。そうは⾔っても、安全第⼀は何よりも重要。

 新年会や挨拶回りの行き帰り、とりわけ暗い夜道には、「おお友よ」、くれぐれもご注意をいただきたい。

(みなみきょうこ=医師、作家: 終末期医療のあり⽅を問う医療ミステリー『サイレント・ブレス―看取りのカルテ』=幻冬舎=が、2018年7⽉12⽇に⽂庫化。クレーム集中病院を舞台に医療崩壊の危機と医師と患者のあるべき関係をテーマに据えた⻑編⼩説『ディア・ペイシェント』=幻冬舎=も好評発売中)

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2018年12月31日