・9月1日「被造物を大切にする世界祈願日」に始まる「被造物の季節」と別に「”いのち”を守る月間」とする意味は?

 9月は世界のカトリック教会はじめキリスト教諸教会が参加する「被造物の季節」。1日の「被造物を大切にする世界祈願日」に始まり、アッシジの聖フランシスコを記念する10月4日まで、人類はじめ神に作られた物を守り、育てる祈りと行動の月間だ。

*教皇フランシスコのメッセージ

 教皇フランシスコは 2016年の9月1日「被造物を大切にする世界祈願日」に当たって、「私たちの共通の家に慈しみを」と題する次のようなメッセージを出されている。(以下、抜粋)

・・・・・・

 正教会の兄弟姉妹との一致のうちに、カトリック教会は今日、他の教派やキリスト教共同体に支えられ、「被造物を大切にする世界祈願日」を祝います。

 この日は、被造物の管理人となるという自らの召命を再確認し、すばらしい作品の管理を私たちに託してくださったことを神に感謝し、被造物を守るために助けてくださるよう神に願い、私たちが生きているこの世界に対して犯された罪への赦しを乞うのにふさわしい機会を、各々のキリスト者と共同体に与えてくれます。

 人間の命そのものと、その命に含まれるすべてのものの中には、私たちの共通の家を大切にすることが含まれます。したがって、七つの業からなるこの二通りの伝統的な慈善の業に一つ補足することを提案させてください。慈善の業に「私たちの共通の家を大切にすること」が含まれますように。

 精神的な慈善の業としての「私たちの共通の家を大切にすること」は、「神の世界を感謝のうちに観想すること」(回勅『ラウダート・シ』214)を必要とします。その観想は、「神がわたしたちに届けようとお望みになる教えを、一つ一つのものの中に発見させてくれます」(同85)。

 身体的な慈善の業としての「私たちの共通の家を大切にすること」は、「暴力や搾取や利己主義の論理と決別する、日常の飾らない言動」(同230)を必要とします。この業は、「よりよい世界を造ろうとする一つ一つの行為において感じられます」(同231)。

 私たちは自分の罪や非常に困難な課題に直面しても、決して希望を失いません。「創造主は決して私たちをお見捨てになりません。神は決してご自身の愛する計画を放棄したり、私たちをお造りになったことを後悔したりなさいません。……主がご自身を私たちの地球と決定的に結ばれ、またその愛が、前へと向かう新たな道を見いだすよう、絶えず私たちを駆り立ててくれるからです」(同13、245)。とりわけ9月1日に、そしてその後は、一年中、次のように祈りましょう。

「おお、貧しい人々の神よ、あなたの目にはかけがえのない この地球上で見捨てられ、忘れ去られた人々を救い出すため、私たちを助けてください。……
愛の神よ、地球上のすべての被造物へのあなたの愛の道具として、この世界での私たちの役割をお示しください。いつくしみ深い神よ、あなたの赦しを受けて、私たちの共通の家全体に あなたの慈しみを運ぶことができますように。あなたは讃えられますように。アーメン」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

*今年5月になって日本の司教団が、同じ期間を「すべてのいのちを守るための月間」にする、と発表

 だが、日本の司教団は今年5月になって、高見・司教協議会長名で「すべてのいのちを守るための月間」設置について、「わたしたち司教団は、教皇フランシスコの訪日にこたえて、毎年9月1日~10月4日を「すべてのいのちを守るための月間」と定め、今年から実施することにいたしました」という発表をした。昨年まで、バチカンとキリスト教諸教会の呼びかけを受けて日本でも行っていた「被造物の季節」とどのように連携するのかも含めて、その後、カトリック中央協議会のホームページも5月の発表当時のまま、具体的な提案もなく8月31日に至っている。

*わざわざ、漢字の「命」でなく、ひらがなの「いのち」を使う意味はどこにあるのか?

 この問題への立ち入った論評は控えるとして、この司教団の標語のキーワードである「いのち」という表記について考えたい。どうして、「命」という通常の当用漢字表記が一般にされているのに、わざわざ、ひらがなにするのか。特別の思いを込めているのなら、説明が必要だが、そのような説明は聞いたことがない。

 語源的にみると、ひらがなの「いのち」の語源には諸説あり、「い」は「いく(生)」や「いき(息)」と共通の意味があり、「ち」は「いかづち(雷)」や「大蛇(おろち)」などの「ち」と同じく「霊力」を意味するとする説。「いきのうち(息内)」が略されて「いのち」になったとする説。「いののち(息の後)」が略されて「いのち」になったとする説。「「いきのうち(生内)」が略されて「いのち」になったとする説、など、要するに「霊」や「息」に関係する説が多いが、はっきりしない

*「命」には語源的に「祈りを捧げる人に神から与えられるもの」を表わしている

 これに対して、漢字の「命」は「人」「口」「」から作られ、「祈りを捧げる人に神から与えられるもの」との解釈で一致。高名な漢文学学者、白川静氏は『常用字解』(平凡社、2004)で、「命」は「令と口とを組み合わせた形。令は深い儀礼用の帽子を被り、跪いて神託を受ける人の形。口はᄇで、祝詞を入れる器の形。神に祝詞を唱えて祈り、神の啓示として与えられるもの」としている。この場合の「神」は中国の神だが、その「神」が何を指すのかは諸説あるだろうが、漢民族の伝統的な宗教とされる道教では、中心概念の(タオ)は宇宙人生の根源的な不滅の真理を指す。

*福音書のイエスの言葉、日本語訳も「命」が使われている

 8月30日、年間第22主日のミサで読まれたマタイ福音書のキリストの弟子たちへの言葉は、日本語訳では「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(16章25節=カトリック教会のミサ典礼で使用されている「新共同訳」)と、漢字の「命」を使っている。漢字の「命」の語源を知っていれば、ひらがなでなく、漢字の「命」ー祈りを捧げる人に神から与えられるものーが実にしっくりくる、キリストの言葉の意味がよく理解できるのではなかろうか。

 「すべての…」の標語のキーワードに、ひらがなの「いのち」を使うことに、どれほどの理解と思いがあったのか、知らない。言えることは、聖書の日本語訳で漢字の「命」がきちんと使われているにもかかわらず、わざわざ、「いのち」と書くカトリック教会の聖職者、関係者が多く、おそらく、その意味について深く考えることもなく、使用しているのではないか、ということだ。言葉は、人にメッセージを伝えるための重要な手段であり、一言一言、とくに重要なメッセージを込めたキーワードについては、十分な理解と配慮が必要だ。それがおろそかになっては、福音のメッセージもうまく伝えることはできない。

*日本語の用語を大切にしないのはカトリックの”伝統”?

 「なぜ『神』なのですかー聖書のキーワードのルーツを求めて」(2011年、燦葉出版社刊)で筆者が書いたことを詳細に繰り返すつもりはないが、日本語を大切にしない”伝統”は明治初期、キリスト教の布教が改めて始まった時から続いているようだ。

 聖書の日本語訳に最初に手を付けたのはプロテスタントの宣教師だったが、「God」の中国語訳をめぐって議論が分かれる中で「神(shin)」と訳した米国人プロテスタント宣教師が、たまたま漢字が同じだったことで、聖書和訳の際に「神(カミ=一般的には八百万の神を意味していた)」を使った。

 それをカトリックの翻訳者も(翻訳に関わった日本人が、プロテスタント宣教師を手伝ったのと同じ人物だったこともあり)そのまま使用して、現在に至っている(第二次大戦中は、神道の「神」との混同を避ける為か、軍部に命じられたのか、不明だが、中国のカトリック教会が使用していた「天主」「天主教」に変えられていたが)。

 もともと、日本語の「神」には一神教の概念はなかったにもかかわらず、この漢字を採用したことが、日本人の間に、いやカトリック信者でさえも、「神」理解に齟齬が生じる原因となって続いているのだが、そのような経過を知っているカトリック関係者がどれだけいるのだろうか。ひらがなの「いのち」を多用することにも共通しているように思われる。「”いのち”を守る月間」の機会に改めて考えてみた。

 (「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

 

 

 

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
2020年8月31日