・駒野大使の「ペルシャ大詩人のうた」⑱「”あれ”のある顔の女性」は、神への愛の表徴 

 筆者が毎日暗唱し、教訓・励みとしている14世紀ペルシャの詩人ハーフェズの詩の断片を、そのガザル(短形詩)全体とともに紹介している。しばらく、その続きである。

 

 「美女とは美しい髪や柳腰をいうだけではない “あれ”のある顔(かんばせ)の女性のとりこになろう 天国の妖精や絶世の美人の様(さま)は美しく華やか その美しさ華やかさには“何か”がある

 咲き始めた花よ(美女、神の象徴) 我が目の泉(涙)に気付けよ 汝に願いを懸けて目にあふれる涙を流している我を(助けよ) 汝が目や睫毛は弓矢の術において 弓持つ武者のいずれよりも強い 汝の美しさは輝く太陽にも勝る (太陽すら)手綱を保つことができない武者のよう

 心から絞り出される我が歌は人の心に響き汝(美女)も受け入れた 然り然り恋の歌には ひびきがある(苦しみ痛み) 修道の場で励む者に対して(導師よ)徳を吹聴するなかれ いかなる説教もなす時があり いかなる論義もなすところがある 恋の途においてはだれもが秘密の高みに達せられるわけではない おのおのの理解に応じて信ずるものだ 賢い鳥は野原を住処とはしない 春にはいつも(冷たい)秋が続くから(一時の幸せを追わない)

 賢ぶる者(導師)に伝えよ ハーフェズにその秘儀や論を売り込まないように われら(ハーフェズ)が歌も美しさや趣に こと欠かない」

 筆者が教訓にしているのこの詩の前半の自慢話は控えよ、というのは当然として、特に後半部分、議論のみならず、日常しゃべることでも、時と場所を心得るべきだ、という点は心に留めている。もっとも、なかなかそうはいかないのが凡人の常であり、自戒している。

 他方、ハーフェズの意図は自らの人生への姿勢、すなわち神への恋の道とそれにかける自らの生き方への自負である。求める美女の描写は肌理細かく微妙、まるで実際の恋の経験を踏まえて語っているかのようであるが、あくまで神への恋であり美女はその表徴である。

 美女の何とも言えぬ美しさを描写するのに、ハーフェズは「あれ」や「何か」(冒頭部分で“でくくった2つの言葉)という暗黙の了解を前提とする表現を用いている。“あれ”は、イスラム神秘主義道の専門用語であるが、後のペルシャ語文学では一般化されて、「感得できるものの言葉では、言い表せないもの」を意味するようになった。

 眼や睫毛は美女の象徴であり、その形状から弓矢にたとえられる。目は射る矢であり、睫毛は弓の形をしている。したがって「美女は弓矢の名手、いかなる弓の引き手にも負けない」と言って、その美しさと(魅)力を絶賛している。また「輝ける太陽も、美女の前では手綱さばきもままならない武者のようで、到底美女に太刀打ちできない」と述べている。そうした美女は、神でしかありえないであろう。

 続いて、神への恋の道を修行する場、修道場における先輩導師の腐敗ぶりに矛先を向け、彼らは修道場では格好よく徳を語り高説を吐くが、陰ではなにをしているのかと強く批判する。腐敗した導師を導師として認めないハーフェズに対して、導師たちも厳しく当たっていたようである。また存命当時から広くペルシャ文化の世界に知られていた詩人ハーフェズに対して、先輩導師たちのやっかみ、反発も強かったのであろう。

 それに対してハーフェズも「自分(詩作)こそ、神を求める道における苦しみや痛みを心の底から絞り出して歌っているから、人の心に訴えるのだ」と言って、導師たちに余計な説教(非難)はよしにしてくれ、と叫ぶ。それは、自らの生き方と詩人としての創造に対する強い自負の表明であり、「神への修行の道においては、誰もが目的を達せられるわけではない」とまで言っている。

(詩の翻訳は筆者)

(駒野欽一=元イラン大使)

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2019年1月30日