・竹内神父の日曜午後の散歩道 ④しなやかさこそ、イエスの強さ

「人間の強さって何ですか」。ある時、一人の高校生から尋ねられました。

 (何だろう)しばし戸惑いましたが、ふと、次のような思いが浮かんできました。「例えば、竹のようなしなやかさかな… そのようなしなやかさがあるから、たとえ強い風に吹かれても、また、雪が葉に降り積もっても、折れることなくもとの状態に戻れるからね」。その時、その高校生も妙に納得した様子。自分もまた、今振り返ってみると、「やはり、そうだろうな」と思います。

 

*弱さとは

 私たちのや心は、実は、自分が思っているほど強くはありません。むしろ、弱い、と言えるかもしれません。ただ、この弱さは、「力や体力がない」というよりも、「脆い」といった感じ
の弱さです。事実、私たちは、身心が緊張していると、ちょっとしたことでも、ポキッと折れてしまいます。

 私たちの生活は、様々なストレスで満ちています。他の人と共に社会生活を送るにあたっては、確かに、守らなければならない規則や規範があります。しかし、同時にまた、大切なこととして心に留めておかなければならないことがあります。それは、「お互い弱さを気遣い合い、一人ひとりのいのちを慈しむこと」ではないかと思います。

 

*しなやかな人、イエス

 ある安息日に、イエスは、手の萎えた人を癒します。「人々はイエスを訴えようと思って、安息日にその人を癒されるかどうか、うかがっていた」(マルコ福音書3章2節)、と福音書は語ります。

 「うかがっていた」(パレテールーン)。この言葉の意味は、「悪意をもって窺う」ということだそうです。世の中には、物事を杓子定規にしか見ることのできない人がいます。そのような人は、とかく、物事の黒白・是非を求め、それゆえ、人を裁く傾向があります。そのような人々に対して、イエスは、こう語りますー「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」(同3章4節)と。

 さらに、彼は、怒りとともに、彼らのかたくなな心を悲しまれます。彼らの心は、しなやかではなかったからです。しなやかでないからこそ、人を裁きの心でしか見ることができません。そのような心では、他の人々と、素朴に喜びや哀しみを共有し合うことはできないでしょう。「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12章15節)。

*イエスの言葉による癒し

 イエスは、手の萎えた人に、「真ん中に立ちなさい」(マルコ福音書3章3節)と言われます。また、彼は、「手を伸ばしなさい」とも語ります。このように、イエスは、ただ語るだけで、直接その人には触れていません。その意味で、アタナシオが指摘するように、イエスは働いてはいない、と言えるかもしれません。いずれにしても、病人の萎えた手は、イエスの言葉に従うことによって癒されました。

 しかし、その一方で、イエスを訴えようとしていた人々の萎えた心は、癒されませんでした。イエスの言葉にしなやかに従った人と、頑なに自分の思いに執着した人々。両者の違いは、鮮明です。

 イエスは、まったく自由な人でした。それは、彼が、人間に対してだけでなく、律法に対してもしなやかに関わったことによく表れています。そして、このしなやかさこそ、イエスの強さであったのではないか、とそう思います。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

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2021年2月27日