・竹内神父の日曜午後の散歩道②「素朴な生活の中で」

 私たちの時間の体験は、不思議です。楽しい時は短く、そうでない時は長く感じられ、時には、退屈で苦痛な時もあります。

 ギリシア語には、このような時間を表すにあたって、「クロノス」と「カイロス」という言葉があります。前者は、計量可能な量的時間であり、後者は、計量不可能な質的時間です。私たちの普段の生活は、クロノスの中で営まれます。しかしその中で、時々、カイロスの経験をします。例えば、ある重大な決断の時
やある人との出会いの時などです。神との出会いーそれは、もっとも凝縮されたカイロスの体験、と言えるでしょう。

*「インマヌエル」と呼ばれる方

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(イザヤ書7章14節)。インマヌエルとは、「神が私たちと共におられる」ということ。この言葉の実現を、私たちは、マリアにおいて見ます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(ルカ福音書1章30-31節)。片田舎に住む一人のおとめに、比類のない神の恵みが注がれました。マリアにとって、それは、彼女の日常生活(クロノス)への神の介入(カイロス)にほかなりません。時間の中で永遠が胎に宿されますー「お言葉どおり、この身になりますように」(ルカ福音書1章38節)。

*この身になりますように

 いのちの言葉を宿したーこれは、確かに、マリアが受けた恵みです。しかし、それはまた、神のみ言葉に対する彼女のまったき自由な信託によって可能となりました(ルカ福音書11章28節参照)。この神からの祝福は、聖霊によるものでした(ルカ福音書1章35節;マタイ福音書1章18節、20節参照)。この恵みについて、アウグスティヌスは、次のように語りますー「マリアはキリストを彼女の胎に宿す前に、信仰によって彼を心の中に宿した」。

 私たちは、まったく同じ恵みを受けることはできないでしょう。しかし、それに連なることなら、可能です。つまり、もし私たちが、マリアと同様に、聖霊のはたらきに従順であるならば、自らの中に永遠を宿すことは可能なのです。換言すれば、自分の日常生活(クロノス)において神と出会い(カイロス)、自らにおいてみ言葉を体現する、ということです。

*聖霊の実り

 それは、聖霊の実りとして、様々な形で実現します。パウロが語るように、「霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤの信徒への手紙5:22-23)です。これらはみな、私たちが、身に着けるべき大切な徳です。改めて確認したいことーそれは、神の恵みは、平凡で素朴な生活の中の一つひとつの出来事に注がれている、ということです。私たちは、もっとそのことに気づき、それに対して静かな驚きと感謝の念を抱きたい、とそう思います。

 インマヌエルと呼ばれる方は、その名のとおり、いつも私たちと共にいてくださいます。この方は、私たちのために木に掛けられ、自らの息を御父に渡されました(ルカ福音書23章46節参照)。それゆえ、この木は、「命の木」(ヨハネの黙示録22章2、14、19節;創世記2章9節)となり、それによって私たちは、自らの実りを味わうことができるようになるでしょう(詩編1章3節参照)。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」にしてあります「カトリック・あい」)

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2021年1月2日