・竹内神父の午後の散歩道 ⑳素朴な美しさとその清らかさ

 「人と人とのあいだを/美しくみよう/わたしと人とのあいだをうつくしくみよう/疲れてはならない」(「ねがい」)。八木重吉(1898-1927)は、その短い生涯にも拘わらず、数多くの詩を残しました。素朴な言葉で紡がれる彼の詩は、私たちに、穏やかな輝きと暖かな透明感を届けます。またその余韻は祈りとなって、私たちを神へと導きます。

 この素朴な美しさは、ひとえに、彼の心から溢れ出てくるものなのでしょう。「およそ心から溢れ出ることを、口は語るのである」(ルカによる福音書6章45節)。人と人との間を美しく見たいーそう願う彼は、同時にまた、それが容易でないことも分かっていました。

 

*すべては心から

 

 「美しさ」と「清さ」ーそれらは、その最も深いところでは一つである、とそう思います。聖書においても、「清い」(カサロス)という言葉が、しばしば語られます。この言葉は、一般的には、倫理的・宗教的観点における清さを表しますが、その意味は、「混じり気のない純粋さ」を意味するようです。

 例えばイエスは、こう語ります。「心の清い人々は、幸いである/その人たちは神を見る」(マタイによる福音書5章8節)。清く生きるーまぶしいような言葉です。でもその意味は、いったい何なのでしょうか。真っ直ぐ神に向かうことでしょうか。あるいは、そのような生き方を求めることなのでしょうか。

 いずれにしても、しかし、まず心を整えること、それこそが大切なのではないか、と思います。その出発点となるのは、「正しい意向」(right intention)を持つことです。清い生き方は、ここから始まります。私たちの人格は、それによって養われ、真の「仕合せ」へと導かれます。この仕合せは、互いに仕え合うことによって与えられます。この仕合せは、自分の仕合せでありながら、同時にまた、周囲の人にとっての仕合せでもあります。

 その一方で、私たちは、汚れた人になることもあります。その原因は、いったい、どこにあるのでしょうか。イエスは、こう語ります。「外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである… 中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る」(マルコによる福音書7章15、21節)。(なるほどな)と思います。

 またパウロは、「汚れ」についてこう語ります。「それ自体で汚れたものは何一つありません。汚れていると思う人にとってだけ、それは汚れたものになるの
です」(ローマの信徒への手紙14章14節)。

*ひっそりとまた慎ましく

 

 イエスはまた、こう語りました。「私は光として世に来た」(ヨハネによる福音書12章46節)。この光は、実にひっそりと慎ましい形で、この世に来られました。「マリアは月が満ちて、初子の男子を産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカによる福音書2章6-7節)。

 この光の中にこそ、真の命があります。それは世の初めから神と共にあり、神のみ言葉として私たちに語り掛けます。これが、私たちに与えられた神からのしるしです。美しい生き方や清い生き方ーそれらは、このような素朴な形でこそ体現されます。そのことに気づかされる時、私たちは、改めて静かな感動に誘われます。

 八木重吉は、また、次のように祈り求めます――「どこを/断ち切っても/うつくしくあればいいなあ」(「ねがい」)。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2022年9月3日