・竹内神父の午後の散歩道 ⑲病気について思うこと

 健康でありたいーおそらく、それは、すべての人の願いでしょう。にもかかわらず、病気を経験したことのない人は、いないでしょう。そもそも、健康とは、いったいどういった状態を意味するのでしょうか。

 英語のhealthという言葉は、もともと、「全体・完全」(whole 、「癒す」(heal)、また「神聖な」(holy)などの言葉と同語根のギリシア語holosに由来する、と言われます。また、ラテン語のsalus(健康)という言葉は、ただ単に身心の健康だけでなく、霊的健康の意味での「救い」(salvation)にも通じているそうです。

 そうすると、「真の健康」とは、ただ単に身体や精神の健康だけでなく、本来は、「人間の生命の調和ある状態や霊的救済までも含んでいる」と考えられそうです。

*病気の癒しと神の国

 「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされた」(マタイによる福音書4章23節 イエスの福音宣教と病気の癒しは、分かちがたく結びついています。 時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて 福音を信じなさい」(マルコによる福音書1章15節 ーここに、イエスの福音宣教は始まります。病気の癒しは、「神の国」の到来のしるしでもあります。

 イエスは、ガリラヤでの宣教を始めてまもなく、四人の漁師を弟子にします。その後、彼は、様々な場所で、多くの人々の病気を癒します(マルコによる福音書1章21-34節)。

 ある安息日に、彼は、会堂に入って教え始められます。そこで 彼は、汚れた霊に取りつかれた男から その霊を追い出します。その後、彼は、シモンとアンデレの家に行き、シモンのしゅうとめの病気を癒します。その後、彼女は、一同に仕えます。

 「仕える」(ディアコネイン)とは、もともと、「食卓で給仕をすること」です。病気からの癒しによって、私たちは、誰かに仕える者となります。夕方になると、人々は 病人や悪霊に取りつかれた者をイエスのもとに連れて来 町中の人は、戸口に集まります。

 このように、イエスの活動の場は、「会堂」からペトロの「家」へ、そして「戸口」へと移っていきます。「会堂」は宗教生活の場、「家」は個人的な生活の場、そして「戸口」は公の生活の場 と考えられます。つまり、イエスの活動は、あらゆる生活の場へと広がっていたのです。しかも それは、休む暇もなく続きますー 狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子(イエス)には枕する所もない」(マタイによる福音書8章20節)。

*祈りにおける神との親しさ

 そのような生活を支えていたことーそれが、祈りです。 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた (マルコによる福音書1章35節)。

 祈りとは、神との親しさ、そしてその交わりにほかなりません。イエスの場合、それは、彼を遣わされた父なる神との親しさです。具体的に彼は何を祈ったのか、そのことについて聖書は、ほとんど語っていません。大切なのは むしろ、祈りにおいて父と一つになることにある、と言いたいからでしょうか。

 自分と父は一つ(ヨハネによる福音書17章)―これは、祈りによって得たイエスの確信です。そのことを、彼は、次のように語ります。「 私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである…。私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させること〔である〕 」(ヨハネによる福音書6章38-40節)。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

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2022年8月1日