・竹内神父の午後の散歩道 ⑰命の息に生かされて

 元気でいたい―おそらくそれは、誰もが望むことでしょう。しかし私たちは生身です。生きているかぎり、何らかの病気に罹ることも避けられません 身心一如ー私たちのと心は一つ。ですから、気が塞いでいればどこか身体の具合は悪くなり、身体の調子が崩れれば心は落ち込みます。「 心が喜びを抱くと体を健やかに保ち/霊が沈み込むと骨まで枯れる」(箴言17章22節)です。

 中国では、古くから、 ”気” は「万物生成の根源力、身体の根源となる活動力」と考えられているようです。 古くは、孟子もまた、「われは善くわがの気を養えり」(『孟子』(公孫丑上))と語っています。

 「浩然の気」とは、「天地の間に満ち満ちている非常に盛んな精気」のことのようです。これは、感覚的な目で見ることはできません。しかし、生きている現実の中で、確かに感じることはできます ‶気〟によって、人は生きるのでしょう。

*聖霊に満たされ導かれ

 聖書の中には、‶気〟の代わりに ”息 ”という言葉が出てきます。「神である主は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き込まれた。人はこうして生きる者となった」(創世記2章7節 )「あなたが 息を取り去ると、彼らは息絶えて/塵に返る」(詩編104編29節)

 イエスを生かしていたものーそれは、聖霊にほかなりません。彼の生涯は、その誕生から死に至るまで、聖霊に満たされ、証しされ、また導かれたものでした。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う」(ルカによる福音書1章35節)ーこれは天使ガブリエルのマリアへのお告げ(マタイによる福音書1章18-20節参照)、聖霊が鳩のような目に見える姿でイエスの上に降り、父なる神から認証を受けます(ルカによる福音書章3章22節 参照)。

 彼は、その生涯の終わりを十字架上で遂げます。「イエスは、この酢を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた」(ヨハネによる福音書19章30節)。

*福音は貧しい人々に告げられて

 次の言葉も、イエスの働きが、聖霊によって導かれたものであることを語っています。 「イエスが霊の力に満ちてガリラヤに帰られると、その噂が周り一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から称賛を受けられた」(ルカによる福音書4章14-15節)。

 イエスは、ある安息日に会堂で朗読されます。手渡されたのは イザヤ書。そこには、次のような言葉が記されていました。

 「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために/主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは/捕らわれている人に解放を/目の見えない人に視力の回復を告げ/打ちひしがれている人を自由にし/主の恵みの年を告げるためである」(4章18-19節)。
「主の霊がわたしの上にある」ーイエスの宣教の原点です。その中心は、貧しい人に福音を告げ知らせることにありました ‶貧しい人 とは、「捕らわれ人」「目の見えない人」そして「圧迫された人」などです。

 「主の恵みの年」とは、もともと ヨベルの年 と呼ばれていました。それは、50年ごとに、すべての民が自由にされる年(レビ記25章10節 )。そのような神の救いが、まさにイエスにおいて実現する と語られます 主の平和が、この地にありますように。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用)

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2022年5月31日