・竹内神父の午後の散歩道 ⑯復活ーイエスは生きておられる

「イエスは生きておられる」(ルカによる福音書24章23節)ー聖書は、この出来事を、「復活」という言葉で表します。しかし、それは、単なる「蘇生」とは違います。イエスは人間として、この世において亡くなりました。しかし神として、今もなお生きておられる。この出来事は、人間の理解と表現を、超えています。(あり得ない)――これが私たちの、素朴な反応でしょう。イエスの弟子たちもまた、同様の思いを抱きました。しかしこれは、歴史的にも確かな事実です。

*希望は消え失せた

 イエスが、亡くなった。それは、人々に大きな失望を与えました。彼らは再び、以前の自分たちの生活へと戻って行きます。その中に、エマオ出身の二人の弟子がいました(ルカによる福音書24章13-35節)。彼らは、他の弟子たちと同様に、イエスこそ、自分たちが待ち焦がれていた救い主である、と信じていました。しかし、十字架上のイエスの死を確認し、意気消沈の中に故郷の村へと帰って行きます。

 その途上で、彼らは、イエスと出会います。近づいて来たのは、イエス。しかし彼らは、それがイエスだとは分かりませんでした。彼らの目は、塞がれていたのです。彼らは、一連の出来事について、話し合い論じあっていた、と聖書は語ります。イエスの復活は、そのような議論の対象として分かるようなものではない、と聖書は語っているかのようです。

*空の墓

 イエスとの会話が始まります。その中で彼らは、一つの不思議が出来事に言及します。「仲間の女たちが私たちを驚かせました。女たちが朝早く墓へ行きますと、遺体が見当たらないので、戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げた、と言うのです」(ルカによる福音書24章22-23節)。しかし彼らは、婦人たちの言葉が信じられませんでした。墓は死者の住む所。イエスがそこにいないのは、当然です。なぜなら、彼は、生きているからです。

*イエスがパンを割かれると

 イエスがなおも先へ行こうとされると、彼らは、イエスを無理に引き留めます。イエスは、彼らの家に泊まります。食事の席に着くと、イエスは、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになります。すると、二人の目が開け、イエスだと分かります。しかしその瞬間、イエスの姿は消えます。パンを裂くーそれは、最後の晩餐の席で、まさにイエスが行ったこと。テーブルの上に残っていたものーそれは、パン。イエスは、その中に留まっています。だから、ご聖体は、私たちにとって命の糧なのです。

 かつてイエスは、「私が命のパンである」(ヨハネによる福音書6章35、48節)と語りました。「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(6章51節)。これは、イエスの招き。そして彼は、私たちに、新しい掟を与えます。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節、15章12節)。イエスは、「私があなたがたを愛したように、私を愛しなさい」とは言いません。彼は、消えます。しかしもし、私たちが互いに愛し合うなら、彼はまさに、そこに現存します。愛ーそれは、言葉としては抽象的です。しかし、その本質は、極めて具体的です。

ヨハネは、こう語ります。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの、すなわち、命の言(ことば)について。ーこの命は現れました」(ヨハネの手紙1・1章1節)。命は、今もなお、私たちを活かし続けています。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

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2022年4月30日