・竹内神父の午後の散歩道 ⑥「二つの命の出会い」-聖母マリアの月に

 「命二つの中に生きたる桜かな」(『野ざらし紀行』)――松尾芭蕉が、同郷の弟子・服部土芳と二十年ぶりに再会した時の感懐を綴ったものです。場所は、桜の下。生きていればこそ、の再会です。二人の命が、こぼれ落ちるような桜の命に包まれている、そのような情景が浮かびます。人と人との出会いとは、本来、このような命と命の出会いなのではないか、とそう思います。出会いは、一見 当たり前のようでいて、実は、その背後には、本人同士にも分からない不思議な縁があるのではないでしょうか。

神の母

 マリアの中で 二つの命が出会います。一つは人間の命、そしてもう一つは神の命。この二つの命が一つとなって、私たちに与えられましたーイエス・キリスト。時は満ちました(ガラテヤの信徒への手紙4章4節参照)。永遠が時間の世界に入ります。慎ましい一人の「シオンの娘」(ゼカリヤ書2章14節)が、「神の母」(テオトコス)となります。生まれてくる子は「インマヌエル (イザヤ書7章14節)と呼ばれ、「いと高き方の子」(ルカ福音書1章32節 と言われます。彼は、ダビデの子孫として人間の子であり、神の霊によって神の子です。神の母となること、それが マリアに与えられた神からの使命です。それゆえ、彼女は 「恵まれた方」(ケカリトーメネー)と言われます (同書1章28節参照)。

恵まれた方

 「恵まれた方」ーこれが 天使ガブリエルのマリアに対するあいさつです。聖書において、この言葉が使われるのは、ここだけだそうです。「マリア」ではなく、「恵まれた方」と呼びかけられます。あたかもそれが、マリアの名前であるかのようです。マリアが そのように呼ばれる理由として、次の二つのことが考えられます。

 一つは、彼女が、聖霊によって神の子を胎内に宿したから。 すなわち、霊的祝福を受けたからです。 聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む (ルカ福音書1章35)。「包む」は、「影を落とす」という意味であり、旧約聖書において、それは、雲の中の幕屋における神の現存を表わします。つまり、「神の霊がマリアの中に降り、彼女を守る」ということでしょうか。

 もう一つは、戸惑いながらも 神の御旨を素直に受け入れ、それによって神の救いの業に参与したからです。「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身に成りますように 」(ルカ福音書1章38節 )。それによって、「秘められた計画」(ローマの信徒への手紙16章25節)が明らかにされます。

 私たちは、まったく同じ意味で、恵まれた者となることはできないでしょう 。しかし、「恵まれた方」という名に与ることなら、できるかもしれません。神の言葉に心を開き素直にそれを受け入れ、それを深く静かに味わいたい、とそう願います( ルカ福音書11章28節、 詩編95章7 8節参照)。

 神の子は、確かに 私たちに与えられました。彼は、神と人間の唯一の仲介者であり(テモテへの手紙1・2章5節)、たった一点を除いて、私たちとまったく同じ人間となりました。その一点とは、彼の中に「まったく罪がない」 ということです(ヘブライ人への手紙4章15節)。

 マリアの中で 二つの命が一つとなりました。そのように、私たちの中でも、神の命と自分の命が出会い 一つとなります。なぜなら、この神の子が、御父との交わりの中に私たちを招いているからです(ヨハネ福音書17章21節)。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

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2021年4月30日