・竹内神父の午後の散歩道⑯「命を食す」ことの意味

 「人の生命を確かに守り育て得る食べものの向こうには、かならず信頼に足る人物が存在しております。私はここに食材そのものに関する解説を書きましたが、実のところ心はその作り手に通わせておりました。食物作りは、変化する自然相手の生活、その人生は消費者の想像を超えた、油断できぬ忍耐、努力の日々だからです」(辰巳芳子『この国の食を守りたいーその一端として』まえがきより)。

 食は、私たちにとって、単なる付帯的なことがらではありません。むしろ、私たちの生活の中心に位置します。このことをしっかり心しておかないと、私たちは、真に大切なものを見失います。自然に対する謙虚な態度、私たちを育む風土への親和性。もしそれらをなおざりにするならば、きっと私たちは、道を誤りいのちを失うことになるでしょう。

*「私は命のパン」

 イエスは、引き渡される夜、パンを取って感謝の祈りを捧げてそれを裂きこう言われますー「これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」(コリントの信徒への手紙一11章24節)。また食事の後、こう言われますー「この杯は、私の血による新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこれを行いなさい」(11章25節)。

 「私は命のパンである」(ヨハネによる福音書6章48節)ーそうイエスは語りました。パンとは、生活の糧一般のことでしょうか。もしそうなら、パンという言葉は、象徴的な意味で使われているのかもしれません。しかし、イエスは、自分(の言葉)を信じる者は、決して飢えることも渇くこともない(6章35節参照)、と断言します。飢えることも渇くこともないとは、つまり、‶永遠の命〟に満たされるということ。それはまた、イエスをこの世に遣わされた方の御心でもあります(6章38-40節)。

 そのパンは自分の‶肉〟に他ならない、とイエスは語ります。それゆえ、彼は、「肉を信じなさい」とは言わず、「自分を食べなさい」といっそう直截的な言葉で語ります。「食べる」ということは、そもそも、具体的・身体的なことです。事実、ここで使われている「食べる」(トローゴー)という言葉は、もともと、「かみ砕く、音を立ててかじる」といった意味で、動物が餌を食べるときにも使われるそうです。ですから、ここで求められているのは、イエス自身を、比喩的にではなく端的に「食べる」ことです。

*揺るぎないものへ

 自分は、普段、何を食べているのか、どのように食べているのか、また、誰と食べているのかーこれらのすべてによって、自分の状態(ありかた)は決まります。先の書物のあとがきには、次のような言葉が記されています。

 「この国の人々が、どこまでまじめな気持ちで食に向かえるかを、私は問いかけたいのです。一見、食を守ることとは無関係に見える、原子力の問題、また憲法の問題を、本文中に掲げました。結局この国が、食を生みうる風土であることが大前提なのです。自然に対する人間の分際というものを、謙虚に知ることが大事です。今まで私たちは自然をむさぼってきました。しかし、私欲を去らないと、食は残せません」

 この本が上梓されたのは、2009年。それから二年後、3月11日の大地震とそれによってもたらされた大津波は、多くの人の命を奪い、生活を破壊し、この国を根底から揺さぶりました。そして追い打ちをかけるような、原発による大惨事。私たちの生活は、いかにもろいものの上で営まれているのか――あらためて、その現実の前に立ちつくします。

 私たちは、今、決して揺らぐことのないものー永遠ーに、真摯に心を向けるべき時(カイロス)にいます。それを見定める時、私たちは、パウロが主から受けた言葉に値する者となるでしょうー「(あなたは、)私が選んだ器である」(使徒言行録9章15節)。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)

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2022年3月31日