・竹内神父の午後の散歩道⑧ 何のための”自己実現”か

*「仕え合う」のではなく「立ち向かっている」

 「私は、人とのかかわりにおいては、互いに『仕え合う』ということを重んじております。ところが、最近は、どうも人々が『立ち向かっている』ように見えるのです。人に対してだけでなく、自分自身に対しても、なにか自己実現といって、立ち向かっている。それは、とてもしんどいことではないかと思います」(辰巳芳子『いのちの食卓』)。

 辰巳さんが語るように、今の私たちは、あまりにも‶自己実現〟を目指し過ぎているのかもしれません。あたかも、それは、一種の義務感か脅迫観念でもあるかのようです。

 もちろん、自分が生きる意義・目的を確認し、それを目指して生きることは、決して悪いことではありません。大切なのは、その‶自己実現〟が、いったい何に基づき、また何のためのものなのか、そのことを静かに、わきまえることだ、と思います。それが出来ていないにもかかわらず、必要以上に力が入っている姿、それが「立ち向かっている」ということなのでしょう。

*自分の意志ではなく神の御心を

 イエスは、生前、‶自己実現〟を目指して生きていたのでしょうか。彼は、こう語ります。

 「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネによる福音書6章38節)ーこれが、イエスの生涯の目的、初めであり終わりでもありました。イエスと父は、確かに別の存在です。しかし、一つでした。「私と父とは一つである」(同10章30節、17章21、23節参照)ーこれは、揺るぎない彼の確信でした。

 ここで語られる「意志」と「御心」は、同じギリシャ語(セレーマ)の翻訳です。その意味は、「望まれている事柄」あるいは「それを望んでいる意志」です。パウロは、次のように語ります。

 「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」(ローマの信徒への手紙12章2節)。

 大切なこと――それは、何が神の御心なのか、そのわきまえです。

*真の「仕合わせ」に向けて

 しかし、いかなる人間の意志も良くない、というわけではありません。問題は、‶自己実現〟を目指すにあたって、神の御心ではなく、自分の意志に基づくために、福音を見失ってしまうことにあります。そのことは、パウロの生涯を見れば、明らかです。彼は、「サウロ」と呼ばれていた時、力の限りを尽くして、キリスト教を迫害していました。しかし、復活したキリストと出会い(回心)パウロとなった時、彼を内側から突き動かしていたのは、明らかに、神の御心です。

 イエスが生涯を掛けて生きた神の御心ーそれは、次のように語られます。

 「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させること…である」(ヨハネによる福音書6章40節)。

 「永遠の命」も「復活」も、その説明は、簡単ではありません。しかしもし、私たちが、互いに「仕え合う」ことの大切さを知り、それを生きようとするなら、きっと、その意味は、確かなものとして見えてくるのではないかーそう思います。なぜなら、イエスは、仕えられるためではなく仕えるためにこそ来られたからです(マタイによる福音書20章28節参照)。そして、そのような「仕え合う」ことによってこそ、私たちは、真の「仕合わせ」へと招かれるでしょう。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

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2021年7月2日