・竹内神父の午後の散歩道⑤出来事としての「復活」

・竹内神父の午後の散歩道⑤出来事としての「復活」

 「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマの信徒への手紙10章9節)。パウロの後半生は、一つの出来事に始まります-それは、復活したキリストとの出会いです。それによって、彼は、根本的に変えられました。12人の弟子の一人であったトマスもまた、同様でしたー「私の主、私の神よ」(ヨハネによる福音書20章28節)。トマスの新たな生活が、始まりました。イエスの招きは、簡潔です――「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20章27節)。

*信じるということ

 信じる心ーそれは、単純で透明で、しなやかな心。信じること(信仰)と理解すること(理性)は、決して矛盾・対立するものではありません。むしろ、両者は、人間の中心において一つとなります。どちらかに偏るとき、問題は生じます。信仰が単純であればあるほど理性は深まり、信仰が透明であればあるほど理性は堅固になり、信仰がしなやかであればあるほど理性は普遍的になります。

 それでは、いったい、何を信じるというのでしょうか。端的にいえば、それは神です。

 しかしながら、この表現は、ある人々にとってはあまりにも抽象的で、実感のわかないものかもしれません。しかしもし、神とは‶いのちそのもの〟であると言われたら、どうでしょう。復活は、抽象的な論理の産物ではありません。一つの出来事です。

*新たな命へ

 「身体の復活、永遠の命を信じます」ーこれは、私たちの信仰告白です。永遠とは、時間・空間の枠組みを超えるもの。そして、復活は、この永遠という相において初めて理解されます。言い換えれば、復活は、信仰の対象であって分析の対象ではありません。復活という出来事が正しく理解されるために求められるもの、それは、信仰の目であり、その心です。

 死は、確かに、一つの別れです。それゆえ、それは、私たちにとって悲しい出来事であることは事実です。息を引き取ることは、一つの‶区切り〟です。しかしその区切りは、それによって、その前後がまったく無関係なものとして断絶されてしまう、といったものではありません。

 むしろ、それは、ある種の質的な転換点です。「信じる者にとって、死は滅びではなく、新たな命への門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠のすみかが備えられています」「葬儀ミサの叙唱」)と私たちは祈ります。この世での死は、命の終焉ではなく、一つの通過点。そのことを(そうだ)と受け入れること、それが信仰なのではないか、とそう思います。そのとき、死は、恐れの対象ではなくなります。

 かつて、マザー・テレサはこう語りましたー「もしも、死は神の家に帰ることだ、と正しく説明されれば、死を恐れることなどなくなるのです」(『マザー・テレサ 日々のことば』)。
命への復活イエスは、私たちを、永遠の命へと誘います。この点にこそ、彼の人生の意義はありました(ヨハネによる福音書6章38-40節参照)。

 このイエスを通して、「神の掟」は与えられます。それは、「神の御子イエス・キリストの名を信じ… 互いに愛し合うこと」(ヨハネの手紙一3章23節)です。ここにおいて、信じることと愛することとは真に一つとなります。イエス・キリストは、水と血によって来られた方(5章6節)。すなわち、彼は、洗礼と十字架を通して、自らが‶いのちそのもの〟であることを示されました。

 そのことを証しするもの、それが、聖霊です。

(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」による)

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2021年3月31日