・画家・世羽おさむのフィレンツェ発「東西南北+天地」⑤ 自然について

 フィレンツェの中心部から20分ほど歩き、アルノ川を越えた丘のふもとにあるアパートに住むようになってから、数か月が過ぎた。

 春になると、ツバメたちがアフリカからの長旅を経て到着し、チュッチュ、チュッチュ、と鳴き歌っている。平均的には、毎時32キロの速度で迅速に飛ぶようで、朝、夕方には、眩しい太陽のもと、数百にも及ぶ群れが、次々とシンクロナイズドスイミングのような振り付けを、低高度で目の前で披露し、そして地平線を探し求めるよう。数十秒後には、すでに空の背景と融合した想い出のように遠ざかっていく。

 家の窓からは、「庭」とは言えないものの一角に土があるのが見える。バラが、春・秋にはすでに育っている若い枝木を土に挿し木することで根が付き、育つことに興味を注がれ、土壌を追加し数本植えてみた。近いうちに、花を咲かせるのだろうか?

 自然と接することで、私たちの心は癒される。そこに神秘は日本古来文化、芸術、そして、神道においても、常に言及されているようである。

 僕が2009年に、カトリック教会、つまり、イエスの教え、そして、彼人間自身に惹かれていた頃、改宗の準備を進めていた中、自分がそれまで肯定的に捉えていた人生観や自然観が否定されるのではないか、とビクビクしていたのを覚えている。

 西洋と東洋の伝統芸術、道徳、哲学の違い、また現在の文化の差異は際立つもので、なかなか心を開いて対話ができなかったことも事実である。また、自分の観念が自分に根付いているものの、とてもあやふやで、なかなか説明できなかったり。そして、何より自分の見方が裁かれることは面白いわけではないし…

 今では、はっきりと、対話の中で意見を裁くことが、とても大切であると思う。もし、あなたの意思が相手を思いやっているのであれば、また対話の中でより真実に向けて友達として、共に歩み寄ることができるのであれば…

 イタリア語で「自然」を表す「natura」という言葉の奥には、常に「ordine」という概念が含まれる。つまり、神学的には、神の理(ことわり)を表しており、また、科学的には、「定理」とでも言ったらいいのか… がある。一方、日本語で言う「自然」という言葉は、古代に中国の老子から取り入れられ、人為を伴わない状態を表している。また、漢字から分かる通り、「自分らしさ」に通じる概念を含んでいる。

 「natura」と「自然」は同じコインの表と裏のようなもので、それぞれ、統合的な規律と、各々の種族らしさや表情、つまり、合理性と個性を示している。そして、これらの言葉は、自分自身の理解にも、無意識的に適用されるわけで、ここに、自分の現実の中での精神的または物理的な位置付けの違いを、それぞれの言葉から、観察できる。

 神道の言葉の歴史をたどると、その本来の意義をより正確に推測できるだろう。それが、宗教として、位置づけられたのは、19世紀に日本で「religion」が初めて「宗教」と訳されてからだ。

 西暦552年の仏教伝来以前は、「古道」と呼ばれており、文字のない社会に特有なアニミズムの一種であったようだ。特色としては、神霊をどこにでも感じたり見たりすることで、そして血縁を超えた先祖崇拝が挙げられます。尖った形状のものを祭壇に付けるのは、落雷を古代人が恐れていたことに発する、という説もある。

 アニミズム的感性は現代アフリカでも見られるように、根底には神への畏れがあり、日本特有のホラー映画、心霊写真、都市伝説、きもだめし、などオカルト色のある精神性を明確に説明できるように思う。そして、現代の日本人は、ある意味で、このアニミズムに通じる非合理的感性を「人間らしさ」と捉えているのだろうか?

 イエスが私たちに与えてくださったことは、まさに、この恐怖心を逆転させるもの、彼の死と復活によって、信じるものに、創造主の本来の計画である「愛」を与えることだった。そして、私たちの神に対するいわゆる「勘違い」を、彼の人生をもって証言してくださったのだ。罰を下すかもしれないと人が恐れる神は、本来の神の姿からはかけ離れており、私たちの心にある罪の意識を反射し、浮き彫りにしているのに過ぎない。

 そうした心のわだかまりを解くために、いろいろな宗教が、社会が様々な提案をし続けているわけだが、イエスは、まず創造主である神とイエスを愛することから始まる、ということを教えてくださった。なぜなら、父である創造主は、私たちを最高により深く愛しているからだ。

 聖ヨハネパウロ2世は、「愛は教えられることではなく、学ばなければならないものである」と言われた。日本的な表現を発明すれば、「愛道」とでも言ったらいいのだろう。

 イエスは、このようなたとえ話を語られている。

 「天の国は、ある家の主人に似ている。主人は、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けとともに出かけて行った。彼は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたがたもぶどう園に行きなさい。それなりの賃金を払うから』と言った。それで、彼は出かけて行った。主人はまた、十二時ごろと三時ごろに出て行って、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と言った。彼らが、『誰も雇ってくれないのです』と答えたので、主人は、『あなたがたもぶどう園行きなさい』と言った。
夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った。『労働者を呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順賃金を払ってやりなさい』。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていたが、やはり一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働かなかったのに、丸一日、暑い中を辛抱して働いた私たちと同じ扱いをなさるとは』。

 主人はその一人に答えた。『友よ、貴方に不当なことはしていない。あたなは私と一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。私はこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分の物を自分のしたいようにしては、いけないのか。それとも、私の気前のよさを妬むのか』。このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(マタイによる福音書20章1〜16節)。

「天の下では、すべてに時機があり、すべての出来事に時がある」(コレヘトの言葉3章1節)。つまり、創造主との出会いも、時期があるのだろうが、どの人もイエスの愛と神の赦しを受けることができる。彼は、気前がよいのだ。

 ラテン教父である聖アウグスティヌスは、キリスト教の美徳の一つである「prudenza」は、つまり、愛することであり、聡明に、それを邪魔することとよりよく育てることを区別することである、と言っている。

 たくさんの罪が自然的行為なので、個人的、社会的、対人的、性的にも、日本では寛容される傾向があり、また逆に、美徳が人為的であるため、悪徳とまではいかないものの、否定的に見られる傾向がある。

 しかし、自然が美徳を、また人為が悪徳を表すわけではないと思う。心の奥で真の喜び、愛を探すなら、新しい精神の命を受けることも可能だろう。なぜなら、洗礼は、誰でも心から望む者には分け与えられるからだ。

 マルコ福音書にはこうあるー「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」(12章27節)。

(聖書の引用は、聖書協会共同訳による)

(世羽おさむ、写実画家。ウェブサイトwww.osamugiovannimicico.com/jp インスタグラムwww.instagram.com/osamugiovannimicico_art/ フェイスブック
https://www.facebook.com/osamugiovannimicico/ )

(絵は、世羽おさむ作「自然の調べ」=油彩、ボード、33 x 24cm、2019)

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2021年6月30日