・愛ある船旅への幻想曲 ⑬自分の家を治められない者に、神の教会の世話ができるのか(テモテへの手紙)

 今も、コロナに関しての注意点や感染者数が報道される。感染者と濃厚接触者は、隔離期間を設けられ、全てに管理下で動かねばならない。しかし、管理されるまでの道程を把握できている人は少ない。行政と医療機関の連携・検査体制は各地域でその場に立たないと分からないことが多い。コロナ禍の気付きからも不安な問題が山積みである。

 子供たちへの影響も大きく、去年よりも教育現場は悪化している。特に受験生は不安だろう。閉鎖された学校もあり、進捗状況も把握されず彼らは公平さを欠く現実を受け止めることになりかねない。先生方も大変だろうが、自分達が歩んできた過程を振り返り、不条理な結末を子供達に味合わせないように、と切に願う。

 私は県の『公立高校入試改革委員会』のメンバーだった時に、幼稚園長や各校長方の発表から学校間の連携のなさを感じた。この会議で情報が活発に交換できることを期待した。子供達の実態を知り“改革”という目的を委員会は達成せねばならない。国から出向の教育委員会トップは、多様な機能と特色の明確さが各学校に必要なこと、何よりも連携の改善を図ることを簡潔にまとめ発表された。彼はメンバーの中で一番若く、しかし、真のリーダーシップを発揮できる人だった。

 チェコの著名な宗教社会学者でカトリックの司祭でもあるトマーシュ・ハリーク教授はワルシャワで開催された児童保護会議での講演で「教会は神の“巡礼者”が集まるところであり、キリスト教の知恵を学ぶ“学校”“野戦病院”だ。そして、“出会い、交流、和解の場“だ」と、主張している。

 まさに、教会はキリスト教の知恵を学ぶ“学校”であって欲しいと私は思う。信徒にとって、キリスト教を深く正しく学ぶのは、むしろこれからかもしれない。キリスト教という宗教を今の日本で軽視されない為にも歴史を振り返り、自分の宗教観を持つことは必要だろう。そして、独自の精神性をも高めねばならない。

 先日、ある高位聖職者発表文書を読み、出だしのアプローチはともかく最終希望は現状維持を思わせる言い回しであり、今必要とされる問題への意識を実感できなかった。来秋の世界代表司教会議(シノドス)通常総会に向けた”シノドスの道”の歩みへの平信徒の思いは、”予想”通り、伝わらないのか、と憂う。昔、王様や貴族は庶民が本当に困っているのが理解できなかった、という話があるが、今、まだ、その時代を生きている人達を、ある意味、”羨ましく”さえ思う。

 私たちは『現代』の家族のかたちで生きている。各世代によって生きてきた道程から家族観の違いはあるだろう。しかし、「周りに壁を作って、自分の主張だけで幸せに生きていければ良い」という考えでは、家族と共に歩むことは難しい。相手の思いに関心を持ち、互いが受け入れた時に、お互いの存在を確認し合い、“愛”を知る。人間として自分を知るためにも支え合う他者の必要性を日々心に留めたい。

 聖職者、修道者また信徒も、”ひとりの人間”だと私は思っている。しかし、それがカトリック教会では曖昧に思える時が私にはある。(全くそう思わない信者もいるだろうが)。

 昨晩、ある報道番組で『フランスの聖職者による性的虐待の実態』が放送された。伝統的なカトリック文化の中で沈黙を保ってきた人達が声を上げ始めたのだ。当時、熱心な信徒の親には言えなかった為に、結婚し子供を持った今もトラウマに苦しみ、悪夢から逃れたい被害者達の訴えだ。生涯独身の司祭達の様子も語られたが、再発防止策は報告されていない。被害者達は、今まで自分が恥ずべき存在と思ってきたが、恥ずべきは教会側だと“教会の改革”に動こうとしている。

 ハリーク教授は主張する。「権力と権威を乱用する聖職者主義を克服しなければならない。この危機は、今日の社会における教会の役割を理解することによってのみ克服できる。」と。

 私は、「人間でないなら、人間が分かるわけがなく、人間イエスをも語れない」と思っている。

 改めて、日本の教会の指導者であるはずの方々に問いたいー「自分の家を治めることができない者に、どうして神の教会の世話ができるでしょうか」(テモテへの手紙1・3章5節)と。

(西の憂うるパヴァーム)

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2022年3月5日