・愛ある船旅への幻想曲 ⑱カトリックが”まっとうな宗教”として受け入れられるためには

 今、コロナショック、ウクライナ・ロシア戦争、安倍元首相銃殺事件と次々に予測不可能な問題が起こっている。

 日本では、一般的に“政治と宗教の話”は、ある時からタブー視されるリスクが高まっている。私自身、政治の話から、少なからず気まずい雰囲気を経験し、これは”都市伝説”ではない、と確信している。しかし、互いに個々の主義主張の違いを認めることを前提に、自分が置かれた場所からの意見や疑問を議論することこそ、私たちが生きる社会が発展する為にも必要だ、と私は思う。

 宗教の話は、日本の公立学校に宗教の授業はなく、身近なものになっていない為、私は極力避けている。また、日本の歴史を知る上で、宗教に対する各人の固定観念は違う、と理解している。ましてや、カトリック教会を深く知る人は少ない。この度の、旧統一教会の報道からキリスト教会を同一視している人たちが、既にいることは残念ながら否めない。

 以前、未信者のおじいさんから「カトリック教会も入信したらお金が沢山いるのでしょうね」と、言われたことがある。

 何を根拠にそう言われたのか。おじいさんは、同世代の信者たちからお金の話を聞いたことがあるのか。他の宗教からの情報でそう思い込んでいるのか。いずれにしても、宗教には多額のお金が必要と思っている人たちがいる、ということだ。信徒として、教会を維持する為にお金が必要なことは理解できる。(中には、決してそうは思わない信徒もいるが)。

 カルト宗教の見分け方の一つに「お金の話が出たら要注意」とある。以前、カトリック教会上層部の方々のお金に関しての発言からカルト?と錯覚する場面があった。「信徒の質問に開き直ってカルト的なことを言うようでは」とトップとしての神経を疑い、全く世間知らずの発言に信徒たちはあきれ、失望し、速やかに退散するしかない。信徒の教会離れは今や珍しくなくなっている。

 教皇フランシスコは、「ミサを日曜日に記念することは、教会生活の中心です。キリスト者は、復活した主と出会い、主のみ言葉に耳を傾け、その食卓に養われ、教会、すなわちこの世におけるキリストの神秘体となるために日曜日のミサにいくのです」と語られている。

 私は、洗礼を授かった司祭から、日曜日とミサの関係を説明され、日曜日の予定をキャンセルし、ミサに与る時間を作った。毎週主日のミサに教会に集い、荘厳な気持ちでミサに与り、帰途に着く。イエスを中心とし、イエスの証人となるために、何よりも心の休息を取るために、主のみ言葉が必要である。

 しかし、今の教会はどうだろう。信徒の奉仕職が必要不可欠だとされているためか、なんだか忙しい。日曜日以外も教会に出向く。時間に余裕がなければ奉仕はできない為、子育てや仕事に忙しい世代は無理な話だ。

 結局、奉仕者も委員会活動も、殆どを”ベテラン信徒”に任すことになり、司祭もそれに甘じている。共同体の中に”特別な共同体”ができるわけだ。カルト宗教は、自由時間のほとんどをその団体に捧げることを強いられる、ともいわれる。歪んだ価値観に心が支配される集団にならない為にも、教会奉仕が自分中心の活動になってはならない、奉仕が”いいクリスチャン”を演じる場であってはならない、と思う。

 私たちの教区は、その当時の司教から「委員会メンバーも若い人たちに交代し、教会を変えていきましょう」と先を見た呼び掛けがあった。私たち信徒は、当時の小教区の主任司祭の積極的な呼びかけに応え、それを実行した。

 予想通りとてもデリケートで難しい取り組みだったが、他の小教区より一歩先を歩んでいた。若い人たちから、教会への思い、各委員会を改めるべき意見を聞き、話し合い、今までの良さを取り入れながら、シンプルな教会運営で、誰でもが活動に関われる内容に変わりつつあった…。

 ところが、ある日、古い体制に戻ってしまった。

 今回の“シノドスへの道”への取り組みもリスクを背負っての『現状打破』は、難しく、疑問・質問・意見等を批判としか受け取れない人たちには『現状維持』が答えとなるのだろう。

 以下は、オウム真理教問題を取材するジャーナリスト江川紹子さんが、ダライ・ラマへの取材から『まっとうな宗教といかがわしいカルトの見分け方』からの一節だ。

 「studyとlearnの違いです。studyには“研究”するという意味もあります。研究するには、疑問を持ち、課題を見つけ、多角的に検証することが必要です。一方のlearnは、単語の表現を教わり、繰り返して記憶する語学学習のように、知識を習い覚えて身につけることを言います。studyを許さず、learnばかりさせるところには、気をつけなさい… 一人ひとりの心に湧いた疑問や異なる価値観を大切にしなければ、studyはできません。それをさせない人や組織からは距離を置いた方がよい」

 オウム真理教、地下鉄サリン事件。当時、長女もその時間、地下鉄で高校に通っていた。これも私たち家族には身近な問題だった。カルトは、いつも、すぐ隣にいる。

 本物の宗教には、癒しと自由があるはずだ。一人ひとりの信仰が偽証とならないためには、嘘と偽りのない言葉を語らねばならない。教会が融通の効かない平和を唱える偽善者の集まりにならないためにも言葉には気をつけねばならないだろう。

 先日、数年ぶりにお会いした司祭も教会を憂いていた。真剣に教会を考えている司祭もいるのだ。組織を運営してきた司祭の正直な言葉は嬉しかった。陰に潜んでいる問題こそ、明るみに出さねばならない。「真実なる神、嘘偽りのない神を証しするためにも、私たちが語る言葉に、ごまかしがあってはならない」と常々思う私である。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2022年8月3日