・愛ある船旅への幻想曲 ⑮イエスが示された「平和」と「愛」を改めて思う

 主は復活され、私たちを憐れみ、平和な世へと導いてくださることを今、信じてやまない。そして、私たちは、主への祈りと感謝を、どんな時にも忘れてはならない。

 「あなたがたに平和があるように」

 主は「平和」と、何度言われたことか。

 人は自分にショックな事が起こると、心に平和はなく、恐怖から思考力も失せ虚脱状態に陥る。(イエスの弟子たちや婦人たちがそうであったように。)心が平和でなければ神からの愛も拒絶し、孤立した状態を好むようになる。たとえ“愛の宗教”と論じられているキリスト教の信仰を持っていてもそれは起こりうる。

 「自分が人から愛されたことがないから人を愛することができない」「自分は親から褒められた事も愛された事もない。」「教会の愛って何?」「教会に愛はあるの?」

 人が愛について疑問を持つことは否めない。

 (ここで一信徒の私が“愛”を語るのはおこがましい限りだが。ましてや、このような文章を書く時には、私の心が平和でなければ、まともな文章表現などできないのだが…)

 大体の人は、自分の身体の健康を日々気にかけている。自分をいたわっている。それも愛だろう。「愛」は限りない。自分を愛することで自分を大切にする。しかし、自分勝手な愛にならないためには、自分にとって大切な人からの愛を実感することが必要だろう。偽りのない愛を私たちは神から学ばなければならない。

 「神の御子イエス・キリストの名を信じ、この方が私たちに命じられたように、互いに愛し合うこと、これが神の戒めです」(ヨハネの手紙1・3章23節)

 自分を犠牲にしてまでも、その人を守る愛、それは本物の愛と言える。

 神の愛は、ひとり子イエスの十字架上の死によって、私たちを守ることで示された。

 コロナ禍から、キリスト教を信仰する私たちには神の愛を改めて黙想する機会を与えられたように思う。教会に行けない状況下では聖書を読み、神とイエスを思い起こし、自分の宗教を深く考える為の時間を私は持つことができた。二つのグループで定期的に聖書の分かち合いをし、互いの信仰を支え合い、共に歩む喜びをその都度感じ、感謝の祈りを唱える。これも愛。

 受洗して間もない若者にとって、聖書から教会や共同体のルーツを知ることも、信徒として必要だ。愛ある共同体で彼らの信仰は育まれねばならない。教会に偽物の愛や嫉妬があってはならない。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(コリント信徒への手紙1・13章4節-7節)

 「平和があるように」と、主は言われる。

 この世で生きる私たちの苦しみや不安や寂しさを、慰め癒やしてくださる神からの愛と憐れみと私は理解している。

 私たちが互いに愛し合うことができますように。平和でありますように。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2022年5月5日