・愛ある船旅への幻想曲⑩待降節ー誕生と受難の意味を改めて思いめぐらす

 「主イエス・キリストを信じます」ー教会で、使徒信条を兄弟姉妹として唱える。聖堂で皆の声が一つになる。全世界のカトリック信者はミサにあずかり、兄弟姉妹のために祈り、信仰を共に深める。

 私には幼稚園からの友達グループがある。この学年は、男女共に仲が良い。若い時は、年4回位のペースで常時10人程が集まっていた。段々、職場で責任ある役職になり、お盆とお正月に。そのうちに年末年始のどちらかになり、ある人とは何年かに一度となっている。しかし、会えば違和感なく会話は弾み、友情に何のの問題もない。

 教会での信徒同士の繋がりはどうだろう。「兄弟姉妹の皆さん」と言われ、共にミサを捧げてはいるが、ずっと心に戸惑いがあった。

 人は、特定の物や人を愛でるとき、そう感じるまでには、時間と思いの深さが必要だ。何でも誰でもに、気を置くわけにはいかない。クリスチャンとして“隣人愛”の必要性と実践を諭されてはいるのだが。教会で真の友達はできるのか、と常々思っていた。しかし、ある出来事から“兄弟姉妹、教会家族”と思える仲間ができた。皮肉にも、辛い出来事から、年齢もバラバラだが信仰の真理を学びたい仲間たちを、神は恵んでくださった。互いに愛し、心配りのある関係こそ、教会になくてはならない“愛”だろう。

 イエス様が人間として誕生された日がもうすぐ来る。私と若者たちとの聖書の分かち合いの箇所は、今、ルカ福音書の23章である。イエス様が十字架へと向かう場面である。

 ヘンデル作曲の『メサイア』は、誕生から受難、復活へと聖書の歌詞が用いて歌われる。日本では、クリスマスに演奏されることがあるが、元々は復活祭向けの曲である。そう考えると、今イエスの受難を知り、誕生の意味を知ることは、私たちに必要だろう。イエス・キリストを知る為には磔刑を理解することが大切だ。イエス様は、私たちに何を望まれ、何を伝えたかったのか。そして、今の世と教会をどう思われているのか。これは、《シノドス》を分かち合うために是非とも考えねばならない、と思う私である。

 「上位の共同体は下位の共同体からその役割を奪い、その内部の活動に干渉すべきではなく、むしろ絶えず共通善の観点から必要なときにはこれを支え、これらの相互の活動を調整するために援助すべきです」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅『新しい課題 ― 教会と社会の百年をふりかえって ― 』48項)

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2021年12月1日