・三輪先生の時々の思い ㉓敗戦間際、軍需工場の思い出 

    

「芝浦タービン松本工場」という工場があった。先の戦争中の事で、軍需工場の疎開も兼ねていたのだろう。

 私の郷里、長野県松本市の南郊、その頃「笹部の飛行場」と呼んでいた広大な草原に突如として構築された鋸型屋根を連ねた典型的な構造物だった。

 私たち県立松本中学や私立の松本商業学校、県立の松本高等女学校など中等科の3年生が動員されてこの新設軍需工場で工作機械を操り、でんでんむし型の戦闘機用の過給機を一貫製造していた。

  熟練工は東京か川崎あたりの工場から何人かは来ていたのだと思う。はっきり覚えているのは工員ではなく、監督で、淡い黄色に近いさっぱりした上下服をまとったインテリっぽい男だった。その人がいるだけで、工場内の雰囲気が、油臭さを消して、教室か研究所、といった雰囲気になっていた。

  精密な仕上げ用の工作機械は数えるほどしかなく、戦前にアメリカあたりから輸入したに違いないものと思われた。私が担当させられたのは1937年の国産機で、実に単純化された機能しかなく、鈍重なスタイルだった。

 戦後、青函海底トンネルの工事現場を見学に行ったことがある。そのとき、途中の通過地点の小さな町で町工場を覗き見したことがある。5坪にも満たないくらいの小さな土間に設置されていた工作機械のいかにも精密工作機械らしい堂々とした美しさに、今昔の思いを強くしたものだった。

(2020. 9 .30記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長、プリンストン大博士)

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2020年10月1日