・三輪先生の時々の思いⅡ④「孟母三遷の教え」に従ったのかな

    孟母三遷の教えに従ったのだろうか。吾が父三輪義治は私が0歳、姉昌子が1歳の時、東京に出て、まず芝公園一番地、次いで神田神楽坂、最後に小石川区第六天町13番地に居を定め、表に林野を駆ける猪が巾着の形をした直径が最大4センチの金属板の迷子札に裏書を「小石川区第六天町十三 三輪公忠」としていた。それと一緒に表は「竹林の猛虎」の図、裏に松本中町三輪義治と刻印した小判型の銅板が吊るされていた。三男で末っ子の私を特にかまってくれたという記憶のない私には、そこはかとなく父親らしい愛情が想起されるよすがとなっている。

  この第六天町の借家は、下見板張り総2階立てで、花崗岩の高さ6尺ほどの門柱に「第六天町十三」と記した瀬戸物の表札を付けていた。戦後もだいぶ経った頃、妻恵美子と一緒に、そこを訪れた事がある。秋だったろうか、小春日和ののどかな午後だった。 大通りのクリーニング店で道案内をしてもらいたどり着いたのだったと思う。其処には戦後新築のサッパリした二階屋が建っていた。空襲で焼失した後に建てたものだろう。しかし門柱は戦前のものに違いなかった。

 車一台はらくらく通行できる住宅街の小路だが、門前は最後の将軍徳川慶喜邸の正門だった。毎朝、女子学習院に通われるお姫様お二人を乗せた車が門をくぐって出て行った。そのお屋敷の家令は軍艦の艦長もしたことのある退役海軍大佐で、なんとお名前を「三輪修三」といった。同姓であることが偶然にしろ何かの縁で元将軍慶喜公につながっているようで、何となくホンワカとする認識だった。

 榊原喜佐子『徳川慶喜家の子ども部屋 (草思社、1996)』の帯に「…小石川第六天のお屋敷で…」とある。最後の将軍から4代目、曾孫の徳川慶朝著『徳川慶喜家にようこそ』(集英社、1997 )には「この第六天の屋敷は広大で、その精密な図面を見ただけでは、その全体像を思い描くのが至難の技だ」と書かれている。さもありなん。榊原さんの著書の見開きに掲載されている徳川慶喜邸見取り図(昭和初期ー20年頃)はその広壮さを印象付ける。

 私が目撃したのは、戦後もだいぶ経った頃で、そう「もはや戦後ではない」と言われた昭和も終わり平成の御代になった頃だったろうか。この屋敷跡はただ広大な更地だった。たとえただの一時にしろ、その門前のしもた屋に住まった者として「借家してみたら、偶然にもそれが最後の将軍家の屋敷の相向き合いだった」などと言う事で良い分けがない。孟母三遷の教えに従った父義治の選択であったはずだ。こう考えた時、普段何となく関わりが希薄に思われていた父義治の優しさが、スキンシップのぬくもりのように感じられるのだった。

 そう、孟母三遷だ。東京は初めに芝公園1番地、次いで神楽坂、そして3番目が第六天町だったわけだ。其処に父母とすぐ上の姉昌子1歳と0歳の私が住まったのだ。父は証券取引を生業とする考えを一時抱いたらしく、その修業に上京していたと聞いたことがある。父が会社から帰宅すると、昌子と私が玄関に並んで座って「お帰りなさいませ」とお辞儀をして迎え入れたそうだ。そう母から聞かされていた。ほんの数か月、半年か、丸一年なんて長い事ではなかったらしい。

 兄弟男3人に女2人の内で、東京帝大出身で文部技官になったの長男陽一を除き、キャリアと住まいを東京にするようになったのは私1人だったというのは、「孟母三遷の教え」の効果が、私にだけ顕現したものだろうか。芝公園1番地、神楽坂、そして第六天町と。

 第六天町では住宅街の小路を挟んで最後の将軍徳川慶喜邸の正門に対していたのである。そしてその頃は慶喜公の御孫さんたちが学習院に車で送迎されるのを目撃していた筈であった。

(2021. 4 .1記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長、プリンストン大博士)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年4月1日