・三輪先生の時々の思いⅡ③偉人の年表によくある”忖度”ー新渡戸稲造の場合 

 国民的に、社会的に、偉大な足跡を残した人物の業績年表などには、得てして欠落があり、不完全なことがある。

 一つの例を挙げよう、新渡戸稲造の場合である。それに気づいたのは、もう4半世紀以上前の事なので、今それを記憶の中に呼び起こしても、正確を期すことは難しいが、大筋こんなことだ。

  一つの年表は、東京女子大学が関わったものであった。私が今、はっきり言えることは、新渡戸が東京帝国大学の植民政策論の講座を担当していた頃の事、朝鮮半島の韓国を大日本帝国が併合した時の事である。

 それは明治43年(1910年)年8月22日に調印された韓国併合条約によって起こった。新渡戸稲造は、韓国併合直近の前後に朝鮮半島視察に出かけているが、東京女子大学が作成した新渡戸関係の年表には、この歴史的事実の記載が欠落していたのだ。それは、新渡戸のイメージに「帝国主義的拡張主義者の色彩」が加味されてしまうのを慮ったためだろう、と忖度されるのである。

 暑中休暇明けの9月の新学年開始の式場で、第一高等学校全生徒の前で、校長新渡戸は「君たちが休んでいる間に朝鮮を併合した日本は、一挙に国土が2倍になり、フランスに匹敵するに至りました」という趣旨の事を話し、「大国民としての矜持と責任」について訓話した。国土の拡大は「植民政策論」を専攻する新渡戸として慶賀の至りであった。

 しかし、戦後も何年かたち、戦争を放棄した平和立国の日本国の時代に、新渡戸がその創立に直接関わった東京女子大学が発行した新渡戸関係の年表は、植民政策論専攻の新渡戸であったからこそ明記するのが当然と思われる経歴としての「併合前後の朝鮮半島視察の旅」について記載することが無かったのである。

 実際、併合の4年前に新渡戸は朝鮮半島を視察している。しかし戦後も何年かしてかつての植民地から解放され独立国家大韓民国となって久しい頃、新渡戸によって創立されたという経緯のある東京女子大学が発行した新渡戸に関する年表には、韓国併合前に新渡戸が朝鮮半島に渡っていた歴史的事実は、記載されることはなかったのである。(2021. 2. 27記)

(三輪公忠=みわ・きみただ=上智大学名誉教授、元上智大学国際関係研究所長、プリンストン大博士)

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2021年2月27日