・コロナの早期終息を願って…三題噺

 年が明けてもコロナウィルスの暗雲去りやらない。心をよぎるいくつかを、独断と偏見で申し述べたい。

 

*コロナと国民性

 年末からコロナの第三波襲来ということで危機感をもって諸施策が行われている。12月下旬で我が国の感染者数19万人、死者 2000人弱である。亡くなった方とその家族の方は誠にお気の毒であるが、この数値は諸外国に比してきわめて低い。米国、インド、ブラジル、ロシアそして欧州諸国に於いては我が国と比べて桁違いに多い。

 その理由は何か。一つには身体接触の多い挨拶の習慣によるものであろうし、日本人と比べ万事無神経で大雑把な生活態度にも一因があろう。また欧米人の個人の権利意識の強さにも原因があるあと思われる。欧米ではマスク着用の強制に対して個人の自由の侵害という強い抵抗感があり、反対デモや訴訟が起きている由である。命の危険がある病気のだというのに、マスクをしない権利でもなかろうに。

 彼らの権利意識の強さの一例として、コロナとは関係ないが、、フランスで起きたムハンマドの風刺画に反発したイスラム原理主義者のテロリストによる殺人事件に対するフランス人の言論の自由の主張があげられる。確かに殺人はいかなる場合でも絶対に許されるものでは無い。しかし一方人間の至高の存在に対する崇敬の思いには敬意を払うべきではなかろうか。言論の自由は大切であるが、絶対、無制限のものでは無いはずである。もし無制限なら名誉棄損罪や侮辱罪は成立しないはずである。

 一方、日本人の国民性の特徴は協調性や従順さ、権利意識の低さや自己主張の弱さにあると言われる。これは外交交渉などでは不利に働き日本人の弱点とされる。しかし今回のコロナの防疫に関しては良い結果をもたらしたとみられる。国民性とは不思議なものである。

 

*コロナとカトリック教会

 「潮路 」11月号で、花島克彦氏が、コロナによるミサ参加者の制限によって献金が減少し、小教区の財政問題が生じている、と述べておられる。これ自体,由々しい問題であるが、同時に、信者の教会離れが心配である。

 確かにITの時代であるから、家にいても様々な方法でミサの実況や司祭方の説教、聖書講義などに接することが可能である。それにより個人の信仰を養うことが出来る。しかし我々の信仰は神と自分との直的なものだけでなく、共同体的な要素を持つ。毎週主日のミサに共に参加し共に喜び合うことが大切である。

 人間は習慣的動物であるから、ミサに与り、教会にしげしげと足を運ぶ習慣が薄れてしまうことは、次第に教会離れを起こし、共同体が弱体化する恐れがある。これが杞憂でないことを祈る。

 

*コロナと神の摂理

 東日本大震災の時もそうであったように、大災害が起こると、「神は何故、このような悪を放置されるのか」という問いが現れる。「神は善であり全能のはずである。もし神が悪を避けることができるにもかかわらず、そう望まなかったら神は善ではないし、逆に望んだにもかかわらず、そうすることができなかったなら、神は全能ではない」という論法で、神の存在を疑うのである。あるいは「災害は神の人類に対する罰であるとか、試練である」という考え方ある。

 真面目に生きている正しい人が震災に遭ったり、コロナウィルスに感染して命を失った場合 、神のなさり方を不条理と考え、「神の考えは理解できない」とする。これは旧約聖書のヨブ記のテーマである。考えてみると、この世は不条理の連続である。神のお考えは人間が知る由もない。

 かつて森一弘・司教が「神は創造の後は、自然界については自然の法則に、人間については自由意志に委ねられた。従って個別の問題について、いちいち直接介入されることは無い」と述べられた。私はこの考えに同感である。

 その立場からすれば、東日本大震災は自然現象であり、コロナパンデミックも自然現象または人災である。人間は神に与えられた能力である理性や自由意志をフルに使って、即ち医学技術や政治経済、社会の総力を挙げてこの災厄を克服しなければならないのである。

 さはさりながら、神が人間一人ひとりを愛しておられることを信じるのは、我々の信仰の根本であり、常に祈りによって神と対話することの重要性を、軽視するつもりはない。祈りは信仰の呼吸である。このような危機的状態はかえって、神とのつながりを強め、信仰を深める契機となり得る。

 なお、この世の人生の不条理は、例え人間が納得できないことであったとしても、最終的に終末において神が正しく解決してくださるもの、と私は信じている。

 今年はどんな年になるのであろうか。いずれにせよコロナ禍が一日も早く収束し、平和な日々が戻ってくることを、切に祈るばかりである。

(カトリック逗子教会信徒・菅田栄一)

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2021年2月2日