・ガブリエルの信仰見聞思 ⑧主を待ち望むことは、自身を主に織り込み、結びつけること

 先日、10歳の頃からずっと応援してきたイングランドのプロサッカークラブ、リバプールFCが、ついに30年ぶり19度目のリーグ優勝を飾りました。前回優勝までの黄金期から応援し続けてきた自分のような「シニア」サポーターにとっては、長年待ち望んでいた味わい深い喜びでした。

 私たちの誰もが、いつも待っていますーメールへの返信や配達物の到着、何かの達成や成果、状況の改善や問題の解決、病気からの回復や新型コロナウイルスの世界的大感染の終息等々、広範囲にわたる期間と重要性を持つ様々なことを待ちます。

 また、私たちがそれをコントロールできるかどうか、それが私たちの選択であるかどうかにかかわらず、残念なことに、待つことは時に非常に困難で苦痛を伴う過程になることがあります。

 待つことは聖書の中で広く行きわたっているテーマであり、とりわけ「主を待ち望む」ことの大切さを教えてくれます。

 「主を待ち望め。勇ましくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」(詩編27編14節)

 「私は主を望みます。私の魂は望みます。主の言葉を待ち望みます」(詩編130編5節)

 「慈しみと公正を重んじ、絶えずあなたの神を待ち望め」(ホセア書12章7節)

 「『主こそ私の受ける分』と私の魂は言い、それゆえ、私は主を待ち望む。主は、ご自分に希望を置く者に ご自分を探し求める魂に 恵み深い」(哀歌3章24~25節)

   聖書は多くの箇所で「主を待ち望む」ことについて語っており、私たちを教え、励ましてくれていますが、主を待ち望むことはただ,受動的に待つことではないのです。自分も「待ち望む」という言葉の本来の意味を知るようになって初めて、その教えをより深く理解し、よりよく実践に移す努力をすることができました。

 「待ち望む」は原語のヘブライ語では “qavah” (カヴァ) です。これには「期待して、希望を持って待つ」の意味に加え、「ロープ(縄)を綯う(なう)、撚り合わせる」、または「ロープのように共に結びつけること」の意味も含まれています。それは子縄(ストランドとも言う)を撚り合わせたり織ったりしてロープを形成する過程に似ています。

 ロープに撚り合わされたり織り合わされたりするストランドが多ければ多いほど、ロープの強度が強くなります。ひもは多くのストランドを持たないため、重いものをあまり持ち上げることができませんが、ロープは多数のストランドで構成されているため、それを簡単に持ち上げたり引っ張ったりすることができるのです。

 このように、私たちを神様にしっかり結びつけることによって、力が生まれます。主イエス・キリストをとおして、私たち自身をロープのストランドのように、御父と御子と聖霊に撚り合わせたり、織り合わせたり、しっかり結びつけたりすることによって、強くなります。

 さて、上記の聖句をもう一度読んでください。ほんの少し前に初めて読んだときと比べて、今度はどのように感じますか?

 私たちは主を待ち望む者として、主に織り込む「ストランド」が増えれば増えるほど、強くなれますが、それは他の誰かにしてもらうのではなく、私たち自身で起こさなければならない行動です。

 では、主に織り込んでしっかり結びつける私たちの「ストランド」とは何かと言いますと、絶えず主との会話(祈り)、ご聖体の拝領(ミサ)、み言葉の拝読(聖書)、赦しの秘跡、主の掟を守り、主イエスが愛してくださっているように互いに愛し合う(ヨハネ福音書13章34節)ことが基本ではないかと思います。

 「あなたは知らないのか

  聞いたことはないのか。

  主は永遠の神

  地の果てまで創造された方。

  疲れることなく、弱ることなく

  その英知は究め難い。

  疲れた者に力を与え

  勢いのない者に強さを加えられる。

  若者も疲れ、弱り、若い男もつまずき倒れる。

  しかし、主を待ち望む者は新たな力を得

  鷲のように翼を広げて舞い上がる。

  走っても弱ることがなく

  歩いても疲れることはない。

 (イザヤ書40章28~31節)

(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれて育ち、現在日本に住むカトリック信徒)

(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用)

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2020年7月10日