・ガブリエルの信仰”見聞思” ①「日日好日」―典礼暦年を生きる

 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、「日日是好日」(にちにちこれこうじつ)という禅語があります。単に文字通りの「毎日が良い日である」という意味ではなく、どんな雨風があろうとも、日々に起きる好悪の出来事があっても、この一日は二度となく、かけがえのない一日であり、この一日を全身全霊で生きることができれば、まさに日々是好日となる、という大概の禅的解釈になります。

 「日日是好日」は好きな禅語の一つですが、この言葉は一キリスト者の私にとって、典礼暦年を生きることのあり方、キリストを中心とした生活のあり方を指さ道しるべの一つです。

 大自然を導く四季があるのと同じように、教会は主イエス・キリストの生涯を中心に構成されている典礼暦に導かれています。待降節(アドベント)、降誕節(クリスマス)、四旬節、復活節(イースター)の主要典礼季節と「年間」と呼ばれるそれ以外の週間を通じて、教会は「一年を周期としてキリストの神秘全体を受肉と降誕から、昇天へ、ついで聖霊降誕日へ、さらに幸いなる希望と、主の来臨との待望へと展開しています」(カトリック教会のカテキズム、1194番)。

 人によって、あまりにもそれに慣れているため、典礼暦を単に教会の儀式に使われるカレンダー、あるいは儀式的装飾の一部として扱う傾向があるかもしれません。ローマ数字の文字盤をもつ装飾的マントル時計(棚に置く小さな置時計)のように、見栄えはよいが実際には誰も時刻を告げるのに使っていません。

 かつて私がそのように思っている時期がありました。普段の生活の中で様々な責務などを果たしたり、世のさわぎや価値観に従ったりして、世の基準に基づいた生活のペースやリズムがマイカレンダーの中心でした。

 しかし、使徒パウロがこう教えてくれます。「あなた方は、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストにあって歩みなさい… 教えられたとおりの信仰によって強められ、あふれるばかりに感謝しなさい」(コロサイの信徒への手紙2章6-7節)、「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマの信徒への手紙13章14節)。それに従いたければ、まずは教会の典礼暦を生活に取り入れる必要があることに気が付きました。

 典礼暦は世俗暦の上に重ねて用いることができると思います。道路地図(世俗暦)へのオーバーレイ(重ね合わせ)としての物理的な地図または地形図(典礼暦)のようなものです。道路地図(世俗暦)はある地域内の道路を示しますが、物理的な地図や地形図(典礼暦)が示すような河川や丘の谷など、地域の物理的な性質を示すものではありません。典礼暦はわたしたちの世俗的な生活に信仰が重なっていることを示しています。

 私たちの日々の生活は、必要に応じて仕事、学校、親の責任など、様々な責務を中心に回っています。そのため、私たちの片足は常に正月から12月31日までの世俗的な時間にあります。しかし、私たちカトリック信徒には、待降節から始まり、王であるキリストの祭日で終わるもう一つの時間枠があります。この二つの時期の間の日々のミサ典礼(祝祭日、追悼など)と典礼季節は、私たちの信仰を貫くための道しるべとなってくれます。

 典礼暦年の初めに、私たちはキリストの最初の来臨を追憶するための準備とキリストの第二の来臨の待望からはじめ、そしてその最後に、王であるキリストを宣言しお祝いします。典礼暦では、私たちが倣うべき例として、キリストの御業をはじめ、聖母マリア、諸聖人の働きをしのびます。典礼暦の各日を顧みることによって、キリストの生涯や教えを日々の生活に取り入れることができます。それは主日(日曜日)のミサを超えて、私たちの信仰との日々のつながりと対話を与えてくれます。典礼暦の各日と各季節は、何かが異なる、輝かしい、喜ばしいものです。神さまを愛し、善良で神聖な生活を送る方法を、微妙にも明白にも教えてくれます。典礼暦は神さまに喜ばれるように、生活を秩序づけ、構造化してくれます。

 使徒パウロがこう勧告しますー「あなた方はこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を造り変えていただき、何が神の御心であるのか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるのかを、わきまえるようになりなさい」(ローマの信徒への手紙12章2節)。私たちはこの世に生活していますが、この世に属していません。

 そのため、主イエス・キリストが私たちのために御父に祈ってくださいました。

 「私は彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。私が世から出た者でないように、彼らも世から出た者ではないからです。私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪い者から守ってくださることです」(ヨハネ福音書17章14-15節)。

 私たちが霊的な体と調和して生きていなければ、生活は大抵より複雑で、不確かで、混乱したものに感じられます。私たちが神さまの子どもとしてキリストの御体と調和して生きるとき、神さまが私たちに何を望んでいるかを知ることができ、それを行うことができます。

  「今日、あなた方が神の声を聞くなら… 心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ人への手紙3章7節、詩編95章7-8節)。主イエス・キリストの第二の来臨はいつになるか、私たちには分かりません(マタイ福音書24章37‐44節参照)が、その「とき」は重要ではなく、むしろ、本当に重要なのは私たちが悔い改めを後回しにしないこと、そしてキリストを迎えるために準備しておくことだと思います。

 「明日ありと思う心の仇桜(あだざくら)、夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは」-親鸞聖人が詠まれたと伝わる和歌があります。桜は明日もまだ美しく咲いているだろう、と安心していると、その夜中に強い風が吹いて散ってしまうかもしれなません。

 日日是好日、この心構えをもって典礼暦年を生きていきたいものです。

 (ガブリエル・ギデオン =  シンガポールで生まれ育ち、日本在住のカトリック信徒)

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2019年12月6日