・ある主任神父の回想・迷想⑪ 「ペトロ」と「ヨナ」に共通する「カッコ悪さ」

 教区司祭の私が「霊性」についてうんぬんするのはおこがましい、と自覚しつつ… 私が神学生の時には、「霊性を考える」という授業がありました。

 

*教区司祭の「霊性」?

 もちろん、これはよく話題に上がる「教区司祭の霊性とは」といった内容ではなかったし、その頃よく養成担当者たちから聞かされたのは「霊性、霊性って簡単にいう人がいるけど、そもそも、どんな霊性であろが、その根源は『聖霊性』のはずだろ」ということです。すなわち「霊性」の「霊」は「聖霊」の「霊」であるはずで、別の「霊」などあろうはずもないという、そんなふうに理解し、今もそういう理解なのですが、実のところ、このテーマは、私自身にはとても苦手なものです。

 「ガラテヤの信徒への手紙」には、この「霊」というキーワードを巡って、それらが正確には「神は…御子の霊を、私たちの心に送ってくださった」(4章6節b)とあり、その一方で、「世を支配する諸霊」(4章3節b参照)という対立概念を立てて、これ(御子の霊)を説明しようとしています(4章9b参照)。

 いずれにせよ、「恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です」(コリントの信徒への手紙12章4節)と書かれているように、違って思えても「同じ霊」なので、その意味では確かに「御子の霊」と「諸霊」との識別は難しい。けれども「一人一人に『霊』の働きが現れるのは、全体の益となるためです」(同12章7節)、という言葉に明らかなように、「『全体の益』となっているのか、いないのか」によって、それがどういう「霊」か見分けがつくわけです。現実にそうならない場合、そこでは、たとえどんなに屈辱的に思えたとしても、まずは自らが、誠実に自分を振り返るしかありません。

 この「全体の益」は、無論、ポピリズムに陥る危険がありますが、うまくしたもので、ポピリスムそのものが「霊的な価値観から生じない」特徴があると思うので、これを回避するのは、それほど困難なことではない。むしろ、簡単に思えて難しいのが、自分と向き合う際の「砂漠の隠遁者の如き苦行のような振り返り」で、このほうがよっぽど難しい。人間とは、時として「原寸大の自分」を受容することに大変な抵抗を示すことがあり得る生き物だったりしますからね。これには気を付けたいものです。

 「全体の益」をもたらすものは全てこれ、「御子の霊」によるものでありましょうが、「全体の益」を損ない、「一部の人たちの益」となるようなときには、二つの点で注意しなければならないことがある、と思います。

 「本来、時間をかければ全体の益となるが、長い時間を要するために途中で挫折していないかどうか」ということと、「その人の見えている全体が、実は一部であって、本当の全体ではない」ということ、これらは往々にしてあることで、もったいないといえばもったいないのですが。

*ペトロの霊性」と「ヨナの霊性}

 さて、話がだいぶそれてしまいましたが、「霊性を考える」というテーマのもと、授業だけではなく、そのための黙想会もありました。私は修道会の司祭ではありませんから、本格的な黙想会の究極的なスタイルは知りませんし、そのときの黙想会も、伝統的なそれであったのかどうかも、分かりません。しかし、そこで得たものは自分なりには、とても大きなものでした。

 授業の延長線上に計画されたその内容は、「ペトロの霊性」と「ヨナの霊性」でした。勘のいい方ならこの時点で察しがつくと思うのですが、お察しのとおりでありまして、「司祭職とは『神の道化師』でもある」というメッセージに貫かれた講話でした。

 私も若い頃は、よく小教区以外の仕事を任されたことがありましたが、その折、出向いた先では「神父さんは、どこの修道会ですか?」と聞かれたことがあります。一度や二度ではありませんから、やはり東京教区における各男子修道会の活躍には目覚ましいものがあり、それは今でもそうなのでしょう。

 「いえ、私は教区司祭です」というと、「えっ、なんですか、それ」と言われてほどで、子供の頃から、修道会委託教会で育った方々にとっては、司祭は皆、「どこかの修道会に所属しているもの」という認識だったりします。まあこれは極端な例ですけどね。

 いつでしたか、やはり同じ質問を受けたので、私もついに「ペトロ会です」と答えたことがありました。すると、「そんな会があったのですね」と言われましたが、まあこういうケースで強引に、かつ無理に当てはめるなら教区司祭はいわば「ペトロ会」みたいなものでしょうか。こうしたやり取りは、実は、私だけでなく、先輩の教区司祭たちの中に、やはり同じように答えたことがある人もいます。

*誰もが「福音宣教のヒーロー」になるわけではない

 ペトロはおよそ「カッコいい」という印象ではありません。そのせいか、あまり「洗礼名の候補」に上がりにくいのでしょうか。「恐れ多いから」と言った洗礼志願者もいましたが、そういう事例は極めて少ないものでした。

 幼い男の子でさえも「カッコいいもの」に惹かれます。おそらく歳を取っても「カッコよく」ありたい男性は多いはずで、事実「格好良くありたい」男性は教会にも沢山います。それが悪いわけではないものの、やはりそれが全てではありませんし、増して信仰は「かっこ」ではありませんよね。

 そりゃ「ペトロ」よりは「パウロ」のほうが「カッコよく」描かれてはいます。けれども、パウロは自分でも語っているように、彼なりのコンプレックスがあったわけです。

 そりゃ「ヨナ」よりも、小預言者の「アモス」や「ゼカリア」のほうが「カッコよく」描かれていますが、預言者の苦悩のほとんどは、読み手にとても重苦しいものを感じさせるところがありますね。

 ペトロの「かっこ悪さ」を、福音書は随所に伝えます。だからこそ、私たちは、ペトロの人間的な広がりや、常に「原寸大の自分から主の御後に従おうとする」その姿に触れることができ、それは教区司祭の「在俗の立場」に通じるものがあって、私には見逃せない点です。

 誰もが福音宣教のヒーローになるわけではありません。「聖人の陰に聖人あり」といわれるように、無名の聖人「縁の下の力持ち」といった多くの人が、一人の聖人の背後にいて、ともすればそれを私たちは見逃します。宣教は、それを支え、それを後押ししつつ、いくら「かっこ悪い」思いをしてもめげずに「神の国の到来」に己をかける、という人たちの活躍こそ重要なものでしょう。

 だから「ペトロ」の姿を思い浮かべれば思い浮かべるほどに、必然性のないヒーローなどにはなりたくなくなるし、ヨナの姿を思い浮かべるたびごとに「また空回りしちまったな」と、素直に「自分自身が原寸大の自分と和解する」ことができるわけで、これは一種の達観ともなるでしょう。

*共通善の実現は「カッコよさ」に比例せず

本当に大事なことは「格好のいいこと」などではないことは、周知の事実でありながら、「神の国の完全な到来」以上に「かっこいいかどうか」ということばかりに意識を集中させるというのは、「道化師」の風上にも置けないということですね。

 もっとも「ペトロ」も「ヨナ」も、彼ら自身は当然、素直すぎるが故に「カッコよさ」には惹かれるわけですが、ただ、結果的に「格好がつかない」わけです。しかし、それでもみ旨を求め続けるところは、やはり「カッコよさ」を第一の目的とはしていない、と思えるのです。むしろ主に従うならば、その思いはやがて「全体の益」となってくるはずですからね。

 「バルヨナ・シモン、あなたは幸いだ。(中略)あなたはペトロ。私はこの岩の上にわたしの教会を建てよう」(マタイ福音書16章17-18節)。(他の箇所、例えばヨハネ福音書21章15節などでは「ヨハネの子シモン」という記述になっていますが、「ペトロ」と「ヨナ」の関係性がもし「霊性」を介したものだとすれば、これはちょっと面白い繋がりでしょ)。

 主の御目に、ペトロはどう映っていたのでしょうか。それはまことに興味深い。少なくとも、現代社会における「サマになる」ような「カッコよさ」とは、また異なる彼らしさがあって、それは主の思いを託すに足る何かであったことでしょう。

 それは「格好がつかない」ことを、いとわない、というだけのことかも知れませんし、「今の(その時々の)自分」がどうあれ、「イエスに従いたい思い」が「打算的な思い」の数々を凌駕していた、という見方もできます。

 つまり「全体の益」(共通善)の実現は、「カッコよさ」には比例しない、ということを無意識に証していたのかも知れず、それはまさに(大げさな言い方かも知れませんが)ペトロの「霊性」と言っても良いものなのかも知れません。

(日読みの下僕)

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」より)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年7月2日