・ある主任神父の回想・迷想⑩辛苦の中でこそ生じる「他者性」とは?

 世の中には、絶対音感を身に着けている人がいます。皆さんのごく身近かなところにも、けっこうおられるのではないでしょうか。中には、譜面を見ただけで最初の一音を声に出せる人もいて、「見ただけで、よく『キー』が分かるものだな」と驚くこともあります。

 私には、せいぜい、「かつてのLP版レコード」のほうが、CD録音よりも重低音が響くな、とか、トランジスタより、真空管のほうが音が柔らかいな、くらいしか解らず、絶対音感なんて何故解るんだろう、と思えてしまうわけですが、ピアノの調律師の人などは、これが無いと仕事にならないくらいです。

 人と人とが理解し合うのは、簡単なことではありませんね。一人一人が同じものを見ているようでいて、見え方はかなり違いますよね。だから相手の見ているものが見えたときの喜びは格別です。おそらく同じものを見て、それを互いに追いかけているときには、その実感が倍になるのでしょう。

 しかし、世の中に「同じ人」が一人もいないように、違いばかりが気になることの方が多いのかもしれません。よく、会話中に「同感です」というリアクションを相手が示すとき、本当にそうなのかどうかは少々、考える余地があるにせよ、大まかには、そこでまとまるものがあるでしょう。

 ご存知のように、アッシジのフランシスコは彼の「平和を願う祈り」の中で、「理解されることよりも理解することを」と願っています。「共感を得たい」と思うより、「共感できるように」と、甚だ勝手にですが、言い換えてもいいかもしれません。今や皆、そこまでも気持ちの余裕がないのかもしれません。特に今はコロナ禍ですから、状況は一層複雑です。

 ただ、ほんの一例にすぎませんが、自分自身のこれまでを振り返ると、実際には、気持ちに余裕が無いときとか、追い詰められ、孤独を感じているときの方が、なんだか、相手の気持ちに寄り添えていたような気がします。多分、自分の惨めさを実感すればするほど、無理なくありのままの自分で人と関わることになるものだから、相手と同じ目線で同じものが見えたりするので、相手にもやさしい。

 さらに自分の惨めさを実感している分、計らずもそこを指摘されても腹が立たずに、「そりゃそうだよね」と笑えたりもする。そこで一緒に笑ってくれる人が相手なら、その後なんとなく仲良くなる。

 逆に余裕があることからやってくる独善ゆえに陥る孤独や孤立、それがきっかけとなって起きる苛立ちや憤懣、対立や驚嘆などは、人間には大いにあり得ると思います。

 あるもの(持っているもの)に常に感謝できる人は幸いです。無いものばかりが気になる人は、あるもの(持っているもの)では足りない、という思いが心を占めてしまい、おのずと渇きを招きます。だからといって「ありがたいと思いなさいよ」という(私も母からよく言われましたが)、そういう教条的な示唆は、かえって逆効果なこともあり、(言っている方が「ありがたく」思っていないなら、説得力も無いですからね)。それに、こういう言い方はちょっとね(親子の間であればともかく)。

 「99円は100円」ではありません。ただ、こうした貨幣価値と人の思いとは異なり、何であれ、99あっても不十分だ、と感じるなら、おおむね100あっても足りないことがあります。つまり「こうしたい」という願望が増すばかりなので、次第に、「今あるものは当たり前」になっていきます。「何かを得たい」という気持ちは自然なものですが、それが落とし穴となることがしばしばです。

 「余裕が無いとき」に湧き上がる共感能力は、余裕があると麻痺してしまう… それを考えると、余裕が無いときの自分の立ち位置というのは、感謝する喜びに開かれた「とき」を目の前にしている、と言えるのかもしれません。

(日読みの下僕)

(編集「カトリック・あい」)

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2021年6月11日