・ある主任司祭の回想・迷想 ⑦「教会は”喫茶店”か”ファミレス”か」

 最近は喫茶店も少なくなりました。新聞を読みながら”モーニング・セット”を食べる場所は、ファミレスに取って代わられてしまった感じです。町中の人がそう望んだのかといえば、そうではないでしょう。これは商店街の商売が巨大なショッピングモールに奪われてしまったのと似ています。もちろん、喫茶店も商店街も、まだまだ頑張っているところもありますが。

 教会(この場合は主に小教区)も同じですよね。都会の新興宗教団体は現代化されたチェーン店形式で拠点を充実させていきますが、カトリック教会は、そういう合理化一辺倒の動きを、伝統宗教の立場から、一過性のものとして危険視してもいいくらいなのですが、むしろチェーン店形式になりたくてもなれない、と言った方が正確でしょうね。つまり、そうなると、たちまち「お客さん」と「店員さん」に分かれてしまう。そうすると信仰生活にまで、そういう意識が忍び込んでしまうから、なるべくならそれを避けたいわけです。

 教会の一人一人は大事な成員なのであり、神学的な表現でいうところの「キリストの神秘体」を一人一人が構成している、と言うことができます。だからキリスト者は教会にサービスだけを求めてやってくる消費者などでは決してない。その意味では、所属教会というのは「馴染み」の、「行きつけ」の喫茶店に似ており、「ファミレス」になってしまうとまずいところがあります。そこに集まるのは、単なる「お客」というより、お馴染みの皆さんなので、利用者である前に「仲間」なのです。

 現場では司祭だけが法人職員であることがほとんどで、パートで教区に雇われている人は個々の現場にはほとんどいない。これはマスターだけが喫茶店の店主であるのと似ています。それに集まる人は利用者というより、仲間です。店主が入れたコーヒーを飲み、「いつもの味だ」と安心してくれるのです。

 けれどもオーナーの都合で、時々、店長が交代します。そうすると、コーヒーの味が微妙に変わってしまう。「微妙に」ならいいが、「大きく」変わることもありますよね。すると仲間たちは違和感を感じます。「あれ、いつもの味とは違う」と。

 そもそも、こんなことはファミレスでは起きません。行きつけのファミレスの店長が交代しても利用者には何の影響もない。それに、他方、集まるのは仲間たちというわけではなく、徹頭徹尾、「利用者」です。ファミレスの場合、クレーマーには平謝りをしますが、喫茶店の店長は「うちの店が気に入らなきゃ帰ってくれよ」と言えてしまう。これに客は「店じゃない。あんたが気に入らんのだ」と言い返す。これって、小教区でのトラブルとなんとなく似ているような気がします。

 でも店はオーナーのもので、小教区は教会(広い意味での)のものですから、「キリがないやり取り」を賢い人たちは望みません。どちらの気持ちもわかります。なぜならマスターはただコーヒーを入れ、モーニングを出していればいいのか、というと、それ以上に仲間たちは、世間話や身の上話をしながらそれを飲み食べるのですから、集まる人たちにとって、その店は単なる飲食の場ではなく、ホッとする「安らぎの場」です。しかも仲間たちは、マスターとだけ話し、付き合うわけではありません。お互いに「今日は早いね」などと、声を掛け合います。

 司祭もまた、ミサは大事な務めだからそれに注力しますが、ミサだけしていればいいのかというと、そうもいかない。そうすると、仲間たちとゆっくり関われないことにもなってしまいます。来る人たちとの世間話や身の上話が、ミサを一層、良いものにします。コーヒーやモーニングに加え、マスターとの会話がその店の良さとなることに似ています。私もいくつかの店で店長を務めてきました(つまり主任司祭をしました)ので、それはよく分かります。

 「店長が誰になろうと、俺の目的はこの店さ。あんたに興味はない」と言われることもあります。それは寂しくはありますが、実は頼もしくもあるのです。店長の交代に影響されないほど、共同体が堅固だ、と思われるから。けれども、逆に、同じ言い方でも、動機が別のところにあると、まずいな、と思うことも、無いわけではありません。

 「影響されない」どころか、それ以前に認識がそこまで及んでいないことがあったりするからです。つまり、喫茶店をファミレスのように思っていたり、チェーン店なのに本店のマネージャーにも、交代した店長にも、興味がなかったり、という場合に、「店長変わったの?だから何?」という反応もあり得るからです。似て非なるものというか、ベクトルが正反対というか、両者はかなり異なります。

 「ここは俺の憩いの場であるがゆえに、俺はここを守る」と言うのと、「ここは俺の憩いの場だが、そうじゃなくなったら、違う店に行くさ」と言うのでは、かなりの意識の差があるでしょう。前者には「憩いの場を新店長の勝手にはさせないぞ」という気概を感じることができますが、後者は、そもそもマスターとの世間話も身の上話もなくていい、だから店長の交代はどうでもいい。それにお客様が神様だ、喫茶店だろうがファミレスだろうが、どうでもいい、仲間もいらない、という感じの、消費社会の利用者をイメージになってしまいますよね。

 でも、コーヒーの味が変わっても気にならないとなると、インスタントで「ボられ」てしまうことにもなります。それはとても残念なことですが…。

(日読みの下僕「教会の共通善について」より)

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2020年9月12日