・ある主任司祭の回想・迷想 ⑥「司祭とは何か」の問いに主は答える-「私に従いなさい」

 「司祭って何なのだろう」ー最近、よく考える。コロナの影響で、いつもより過去を振り返る時間があるからだろうか。

 「それが解らずに司祭になったのですか」と叱られそうだが、実はこの問いには、かなりの「深み」が伴い、「これだ」と一言では言い尽くせないものがある。教皇さまさえも、語ればきりの無いくらい語ってくださるであろうテーマだと思う。

 振り返えれば、神学生の頃は、とにかく「司祭になること」だけを考えていたような気がする。その頃は漠然としながらも、ぼんやりと「司祭職」を思い描いていた。ところが、いざ司祭になって4、5年経つと、「本当にこれでいいのか」とよく思うようになった。

 まあ、言ってみれば、そもそも自信がなかったわけで、これまで迷いながらの歩みを進めてきた。忙しい時はともかく、今の時期のように、振り返る時間があると、つい考えてしまうのだー「司祭ってなんだろう」と。

 「ミサを司式する人」、すなわち「秘跡の執行者」、聖書や教会の教えの「解説者」。主任司祭であれば、「小教区の司牧責任者」、はたまた聖書的な表現で言えば「民の長老」。どれも間違いではないはずだが、いまひとつ、しっくりこない。

 神学生の頃、先輩や同僚から、こんなことを言われた-「加藤君、駄目だね。『福音宣教』という一番大事な使命を忘れていないか」。だが、福音宣教は、司祭だけでなく、信徒を含めた教会全体が担っている使命であるはずだ… そんなふうに考えれば考えるほど、よく分からなくなる。実際、私以上にこのことを考え抜いていた先輩たちもいた。

 そうこうしているうちに、私自身の叙階の日がやってきた。その時、あることが思い浮かんだー「目の前に司教と司祭団がいる。司祭は司教の駒であり、司祭団という集団の一人なのだから、一人の司祭の立場だけでこのことを理解しようとしても、あまり意味がないのではないか」。

 あれからどれだけの年月が経ったのだろうか。物理的な年数は当然、分かっている。だが、その過ぎ去った年月の内容が、はっきり見えないように思われるのだ。実際、今でも分からないことが多い。しかし、司祭1人の立場だけで理解することはできなくても、「互いに補い合う」ことはできる。これに主眼をおいて考え続けていけば、ひょっとしたら何か分かるかも知れない… 少なくとも今はそう思えるし、そうやって前に進んで行くしかないのだろう。

 ペトロが、イエスの愛しておられた弟子を見て、イエスに「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と聞いた時、イエスはこう言われたー「私の来るときまで彼が生きていることを、私が望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、私に従いなさい」(ヨハネ福音書21章22節=聖書協会共同訳)。

 司祭職の何たるかは、あまりに深淵すぎて、私には分からない。「つべこべいわず、ついて来なさい」と主は仰せなのだろう。

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2020年8月18日