・ある主任司祭の回想・迷想 ⑤もう一度「終末論」を学び直す時

 今回の新型コロナウイルスの世界的大感染で、沢山の人が亡くなっています。日本でも、死者数が少ないとはいえ、一人一人の人生を思えば、これは数の問題ではないし、加えて、九州や中部地方などの豪雨、また、それと前後して関東地方で地震もありました。

 人によっては、これらをして「時のしるし」と受け取ることがあり、その度ごとに、私も「そうかな」と感じます。巨大な宇宙にさえも寿命があるのだから、私たちの地球も、やがては終わるでしょう。一つの惑星に誕生と死があることは、皆が知るところです。

 では、なぜこの「終末」とか、「時のしるし」とか、その種の言葉が、独特の意味合いを醸し出すのでしょうか。それはきっと、「裁き」や「救い」に結びつく信仰上の用語だからでしょう。

 人間のエゴイズムというのは、空恐ろしいほどのものです。でも、そういう利己心そのものが「直ちに悪である」とは、言えないと思います。過度な不安は、過度な恐れから生じ、その恐れの源は「滅ぼされたくない」という素朴な救済願望でしょうから。それ自体は、人間の原初的な要求です。

 しかし、ここで「自分だけは(他人のことは知らないが)滅びたくない」という気持ちに至れば、その利己心はたちまち「他者への批判」となって表出します。しかも現実の中で苦しむ人は、現実こそが「悪」なのだと、社会批判にまで至り、そこに「終末思想」が加わるのです。「悔い改めなければ滅びる」というわけです。

 ある教会に、毎日のように告解に来る青年がいました。「世の終わりが今来ても、自分だけは救われたい」という、彼にしてみれば切実な願望です。これはこれで、本当に気の毒なことなのです。

 しかし、一歩間違えれば、それは「自己正当化」の願望になってしまう。「常に清くありたい」と思うことは尊いでしょう。しかし、動機が問題ですー迫り来る恐怖と自己正当化、そこに悪循環が巣食ってしまうのです。

 私たちは、今ではあまり語られなくなった感がある「終末」という信仰上の問題に、もう一度正しい理解を持つべきではないでしょうか。

 主のみ旨はいつも「一緒に喜んでください」という呼びかけです。

 この「終末思想」は、とりわけ日本では仏教の「末法思想」と結びついてしまい、なにやらネガティブなイメージしかないようなものになっています。「終末」とエゴイズムとは容易にくっ付いてしまうのです。

 沢山の人が困難な境遇に遭っている現在、そこに真に共感しようと思うなら、終末感漂うことに敏感になるよりは、その人たちのために祈ることを求めるでしょう。

 もちろん、私たち自身、不安になりつつも、自分の殻に閉じこもって、孤独の中で、神の裁きを逃れることだけに意識を集中したりはしませんね。むしろ「終末」を感じる前に、「事態の改善」という希望のうちに、来るべき平安を希求するでしょう。

 私たちは、「こんな時」だからこそ、いつもより落ち着いて、信仰生活を(「終末」への理解も含めて)振り返りたいものであります。

(日読みの下僕「教会の共通善について」より)

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2020年7月9日