・菊地大司教の日記 ㊿「ネットワークミーティング」と「葛西教会50周年」

2019年9月27日 (金)

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 9月21日の土曜日、お昼過ぎから、千葉の鎌取にある聖母マリア幼稚園を会場にして、全国から150名近い青年たちが集まり、ネットワークミーティングが二日間の日程ではじまりました。

 開会式のミサを依頼されたので、東京教区を中心に様々な教区から駆けつけた青年司牧担当の司祭とともに、野外でのミサを捧げました。またこの千葉の地にあっては、先日の台風の被害を受けて、復興に取り組んでおられる方々が大勢おられますし、この幼稚園の周囲でも樹木が大きな被害を受けている様子を目の当たりにしましたので、ミサの中では被害を受けられた方々のために、皆でお祈りをいたしました。

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*ネットワークミーティングとは

 中心になっているのは、カトリック青年連絡協議会です。ホームページがあります。そこに次のように記されています。

「1998年にカトリック中央協議会の青少年委員会が解散するにあたり、全国のカトリックの青年の動きを支えるものを何か残したいということで、カトリック青年連絡協議会の発足の準備が始まりました。従来の青少年委員会の反省から、司祭・修道者と青年が一緒に話し合い考えていくことができるような形の会を目指し、何度も話し合いを進めてきました。

その結果、青年や青年にかかわって活動している人たちが自由に話し合い、交流ができる場「ネットワークミーティング」と、会を責任を持って支えていく場「カトリック青年連絡協議会」とを分けるということが提案されました。そして、2001年9月、第1回ネットワークミーティングが東京にて開催されました」。

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 全国各地で、年に二回ほどネットワークミーティングが開催されています。もちろんこの集まりだけが、日本の教会のすべての青年を網羅しているわけではなくて、それ以外の共同体や運動体も教会にはいくつも存在しています(伝統的には例えばJOCとか、または新しいカリスマによって集まった運動体とか)。

 また、わたし自身もそうだったのですが、こういった集まりで見知らぬ人と出会うのが苦手で、という人だっていることでしょう。一つの形式にとらわれずに、様々なスタイルで青年たちが教会につながってくれていることを期待すると同時に、教皇様が言われるように、青年は未来の教会の担い手なのではなくて、今の教会を作り上げている力なのですから、その力をまさしく「今」発揮していけるような教会共同体でありたいと思います。

 そして今回37回目となったネットワークミーティングのテーマは、なんと召命。「灯して照明!応えて召命!」でありました。

 もちろん召命は、司祭や修道者だけのことではなく、キリスト者としての召命全般のことを指しています。今回の集まりでの出会いによって、それぞれの青年たちが、自らに固有の召命に目覚め、司祭や修道者を含めて、それぞれの呼ばれている道を力強く歩み始めてくれることを、こころから願っています。

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 そして翌9月22日の日曜日は、都内の江戸川区にある葛西教会の創立50周年ミサでした。

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 葛西教会は、聖アウグスチノ会に司牧が委託されている教会です。現在の主任司祭は、フィリピン出身のアウグスチノ会員ジェス神父。日本の責任者である柴田神父様をはじめ、大勢の司祭が参加してくださいました。またこの教会出身の二人を含め、司牧を手伝ってくださる女子修道会の方がたを含めた奉献生活者も、大勢参加。これからも司祭や修道者の召命が、豊かに与えられるように祈ります。(写真の右がジェス神父、左が柴田神父)

 葛西教会の皆さん、50周年おめでとうございます。そしてこれから、次の100周年を目指して、さらに豊かな教会共同体となりますように。また準備してくださった皆さん、素晴らしいお祝いでした。感謝。

 以下、当日のお話の内容と少し離れますが、説教の原稿です。

葛西教会が誕生して50年が過ぎました。

1969年の松江教会献堂にはじまり、その後1985年に葛西教会の献堂を経て現在に至るまで、宣教と司牧に献身的に取り組んでこられた聖アウグスチノ修道会のみなさまに、心から感謝するとともに、お喜びを申し上げます。また、この50年の間、宣Kasai5002教師たちとともに教会共同体を育て上げてきた葛西教会の信徒の方々に、心から感謝申し上げます。

 今日お集まりの皆さんの中には、50年前、どのような思いを胸に抱きながら、新しい教会の誕生に立ち会ったのか、まだはっきりと記憶しておられる方も多くおられると思います。また34年前の葛西教会の献堂をはっきりと記憶しておられる方も、大勢おられることと思います。あっという間の50年、また34年であっただろうと思いますし、同時にその間には、語り尽くせぬほどの多くの出来事があったことだと思います。

 「あなた方は神と富とに仕えることはできない」と先ほど朗読された福音の終わりに記されていました。自らが仕える主人として、神を選択するのか富を選択するのかをイエスは迫っています。

 教皇フランシスコは、「福音の喜び」の中で、現代社会が直面する課題の一つとして経済の格差を上げ、「排他性と格差のある経済」は「「人を殺します」とまで指摘されます(53)。

 その上で、経済の優位性を最優先する現代社会には、「倫理の拒否と神の否定が潜んでいる」と指摘されています。

 わたしたちがイエスの福音に習って生き、その喜びを告げ知らせようとしているこの日本の社会は、いったい何を優先させているのでしょうか。教皇が指摘されているように、もしこの社会にも「倫理の拒否と神の否定が潜んでいる」のであれば、教会共同体は、神に至る道を選択するようにと告げしらせる努力をしなければなりません。教会に与えられた福音宣教の使命です。

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 わたしたちは、教会というのは単に聖堂という建物のことだけを指しているのではないことを良く知っています。第二バチカン公会議は教会憲章は冒頭で、教会とは何かを教えてこう記しています。

 教会は「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」です(教会憲章一)。
ですからわたしたちは、この地域社会にあって「神との親密な交わりと全人類の一致のしるし」となるために存在する「神の民」であって、この「神の民」は、「神との親密な交わりと全人類の一致」をもたらす道具でなくてはなりません。

 教会はその存在を通じて、「神との親密な交わりと全人類の一致」に生きるとはどういう生き方を選択するのかを示していかなくてはなりません。わたしたちはそれを、自らの言葉と行いで成し遂げます。社会に対して共同体として、神との親密な交わりに生きるとは、人間が生きる上でいったいどのような価値観を優先するべきなのかを明確に示さなければなりません。教会共同体は、わたしたちは「神と富とに仕えることはできない」ということを、明確に証しする存在でなければなりません。

 神を選ぶことなく、神から離れた社会は、人間の存在の根本である生命に対する戦いを挑んでいます。
それは例えば、相模原市の津久井やまゆり園での障害者に対する殺傷事件です。

 犯行に及んだ元職員の青年の「重度の障がい者は生きていても仕方がない。安楽死させるべきだ」などという主張に賛同する人も少なくありません。すなわち、わたしたちの社会には「役に立たない命は生かしておく必要はない」と判断する価値観が存在していることを、この事件は証明して見せました。

 さらには、この数年、少子化が叫ばれているにもかかわらず、せっかく与えられた命を生きている幼子が、愛情の源であるべき親や保護者の手で虐待され、命を暴力的に奪われてしまう事件も相次いでいます。

 もっと言えば、1998年をはじまりとして、わたしたちの社会では毎年2万人から3万人を超える方々が、何らかの理由で自ら命を絶つところまで追い詰められてきました。

 また社会全体の高齢化が進む中で、高齢者の方々が、孤独のうちに人生を終えるという事例もしばしば耳にいたします。誰にも助けてもらえない。誰からも関心を持ってもらえない。孤立のうちに、いのちの危機へと追い詰められていく人たちも少なくありません。

 孤独のうちに希望を失っているのは高齢者ばかりではなく、例えば非正規雇用などの厳しさの中で、不安定な生活を送る若者にも増えています。加えて、海外から来日し、不安定な雇用環境の中で、困難に直面している人たちにも、出会うことが増えてきました。

 わたしたちが生きている現実の世界は、残念ながら、神から離れる道を選択し続けています。

 教皇フランシスコは、使徒的勧告「福音の喜び」において、教会は「出向いていく教会」でなければならないと言います。出向いていく教会は、「自分にとって快適な場所から出ていって、福音の光を必要としている隅に追いやられたすべての人に、それを届ける勇気を持つよう招かれている」教会です。

 日本の教会はいま、とりわけ地方の教会において、少子高齢化の影響を大きく受けて、どちらかと言えば規模の縮小期に入っています。そういうときに私たちはどうしても、いまあるものを守ることを優先して、後ろ向きの積極性を発揮してしまいがちです。積極性は前向きに発揮しましょう。

 教皇フランシスコは、かつてブエノスアイレスの教会で司祭や信徒に対して語った言葉を、使徒的勧告の中で繰り返しておられます。

 「私は出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さ故に病んだ教会より好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は望みません」

 教会創立50年という節目に、わたしたちの教会共同体のあり方を今一度見つめ直してみましょう。わたしたち一人ひとりの、福音を生きようとする姿勢を見直してみましょう。
わたしたちは神との親密な交わりと一致のしるしであり、道具となっているでしょうか。
わたしたちは社会において、神の道を指し示しているでしょうか。
わたしたちは後ろ向きではなくて、前向きの挑戦を続ける積極性を持っているであるでしょうか。
わたしたちは失敗を恐れずに、挑戦し続ける教会でしょうか。
わたしたちは困難に直面し、いのちの危機にさらされている多くの方々に、寄り添いともに歩もうとする共同体でしょうか。

 勇気を持って福音を告げしらせる共同体と成長していくことができるように、次の50年を見据えながら、聖霊の導きに教会共同体をゆだねましょう。

(菊地功=きくち・いさお=東京大司教)(「司教の日記」より)

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2019年9月30日