去年のことでした。東京の荻窪教会の信徒でジャーナリストの佐々木宏人さんが書かれた「封印された殉教」という本と出会いました。それを読んで彼の真実を追う熱意と姿勢に感動し、3月17日に成城教会で開かれた彼の講演会に駆け付けました。
真摯な彼の声を一生懸命聞いているうちに、自分の中で何か腑に落ちるものがありました。それは、少し奇妙な感覚で、彼の伝える真実が生きている、という感じがしたのです。私はそういうことにこれまで注意を向けたことがありませんでした。発信された情報を吟味することばかりに夢中になっていて、情報は受け取っても、「真実を伝えたい」という人の思いまで受けとれていなかった、と分かり、そんな自分の姿勢に、すごくがっかりしました。
そこから一年ずっと考えていました。やがて、いつも愛読させていただいている「カトリック・あい」に投稿してみようと思いつきました。私も生きている読者になってみようと。そうすれば「真実を伝えたい」という人の思いまで受けとれるようになれるかもしれない、と思いました。
佐々木さんは、去年の11月に天に召されていきました。あんまり急な知らせでした。なんとかしてお訪ねできたのではないかと、しばらく後悔もしていました。でも、今はフランシスコ教皇様と自由に会うことができて、私たちのために祈ってくださっている、と信じています。
ずいぶん前から、私はパウロの回心に重要な役割を果たした「アナニア」のことがすごく気になっていました。使徒言行録を読んで、主が幻の中で言われることに彼が慣れているように見え、普通に主と対話していることが不思議でした(9章10~19節参照)。どうするとこんなことができるのだろう、と思ったのです。
この場面は、「ダマスコにアナニアという弟子がいた」(同10節)と何でもないように始まっていますが、これらの描写はとんでもないことを伝えているように思えました。アナニアは、イエスを体験していました。「幻の中で主が、『アナニア』と呼びかけると、アナニアは、『主よ、ここにおります』と言った」(同)とあるからです。だからこそ、イエスの名によって遣わされた聖霊(ヨハネ福音書14節26節参照)は、当たり前のように彼に関わって、パウロの救出に向かわせることができました。
一方パウロは、聖霊が、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」(使徒言行録9章4節)と呼びかける声に、「主よ、あなたはどなたですか」(同5節)と問いかえしています。パウロはここでイエスを初めて体験したのです。
聖霊は、イエスを知っているかどうかではなく、真実を受け入れる姿勢を持っているかどうか、で働きかけるのではないかと思います。パウロは、自分に起こった強烈な体験によって、旧約聖書で預言された救い主の名がイエスであると信じたことから、イエスの十字架と復活を通して神が人類を救済した、と理解しました。そして、自身の神学となる多くの教えを残しました。
その一方で、パウロは自分の弟子たちに、「互いに詩編と賛歌と霊の歌を唱え、主に向かって心から歌い,また賛美しなさい」(エフェソの信徒への手紙5章19節)、「聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい」(テモテへの手紙1・4章13節)と勧めました。さらに、「この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに至る知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたもので、人を教え、戒め、矯正し、義に基づいて訓練するために有益です」(テモテへの手紙2・3章15~16節)と書き送っています。
パウロがこれらの手紙に書いている「聖書」とは、旧約聖書のことです。ここで彼が、「与えることができます」、「訓練するために有益です」といった消極的な表現をしたのは、旧約聖書には、「キリスト」の預言はあっても、「キリスト・イエス」の名がないからだ、と思います。イエス・キリストと出会い、洗礼によって新しく生まれ、聖霊によってキリストに似た者へと変えられていく存在となった彼には、もはや旧約聖書に頼る必要がありませんでした。しかし彼は、自分の弟子たちの日常を支える訓練になる何をも持っていなかったのです。
後になってパウロは、アナニアの言葉が、見えなくなっていた自分の目を回復させ、自分に「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです」(使徒言行録22章14~15節)と証言し、イエス・キリストの名を唱えて洗礼を受けるよう勧めた、と語っています。
しかし、アナニア自身については、「律法に従って生活する信仰のあつい人で、そこに住むすべてのユダヤ人の間で評判の良い人でした」(同12節)と描写しただけでした。パウロは、アナニアがイエスの弟子として高度に養成された状態にあったことについては、考えなかったようです。
私たちは、パウロが宣教した時代にはなかった新約聖書を持っています。私は、ここに、アナニアのような弟子になるための養成があるはずだ、と思いました。イエスを体験する養成です。パウロが自分の弟子たちに彼らの日常を支える訓練が必要だ、と判断したように、降臨した聖霊は私たち信者のためにそれを準備しないはずはなかったのです。
このようなことについて7年ほど考察を続けた頃、私は、ヨハネの黙示録の「この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて中に記されたことを守る者たちは、幸いだ。時が迫っているからである」(1章3節)という言葉に、イエス・キリストの養成の書があることに気づきました。この預言の言葉を声に出して読み、これを聞いて、自分の記憶に保持する者の幸いについて書いてあるのではないか、と思ったのです。
そして、試しに毎日。少しずつ黙示録を朗読し始めて4年近くたちました。今度はその間に体験したことや考察したことを投稿できれば、と思います。
今、黙示録の初めに、「イエス・キリストの黙示。この黙示は、すぐにも起こるはずのことを、神がその僕たちに示すためキリストに与え、それをキリストが天使を送って僕ヨハネに知らせたものである」(1章1節)と書かれた言葉は、黙示録に隠されている訓練を保証しているように見えます。
続いて「ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした」(同2節)とあるのは、ヨハネ福音書の終わりに書かれた「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。私たちは、彼の証しが真実であることを知っている」(21章24節)と重なっているかのようです。真実を伝えたい、という人の思いがここにもあったのです。彼らも”良きジャーナリスト”だったのではないでしょうか。
Maria K. M.