私の教区では、この2年間「シノドス」
日本では、全世界に向けて「開かれた教会」「共に歩む教会」となることを宣言した第二バチカン公会議の精神を受けて、約30年前に、全国福音宣教推進会議(NICE)という全国的な運動が進められ、教皇フランシスコが昌道される”シノドスの道”の原型ともいえる「共に喜びをもって歩む」分かち合いの実践が提唱されました。しかし、せっかく盛り上がりかけた運動は、その後の日本の教会、そのリーダーである司教団には、全く引き継がれず、運動を担った司祭、信徒も高齢化し、鬼籍に入られたりして、忘れ去られた状態のまま、現在に至っています。
そうした中での、「霊による対話」。本来なら、”シノドスの道”を実践する有効な手段にもなり得るはずですし、教皇やバチカンの意向もそこにあるはずなのですが、日本の司教団はその意向を十分に理解しているとは思われず、教区レベル、小教区レベルの準備もないまま形だけの全国集会をもったりしてはいるものの、信徒一人ひとりに浸透させるような努力は全くされていないようです。
なぜ、30年前の「共に喜びをもって歩む」NICEの運動が定着せず、消えてしまったのか。その反省もなく、教皇の意向を深く受け止め、末端の信徒一人ひとりに耳を傾け、心を開き、共に歩もうとする真剣な努力もなく、ただ、形だけ”シノドスの道”なのか。
ここにこそ、日本の教会の抱える問題、危機があるはずですし、教会の指導者たちは気が付いているはずなのに、真正面から取り組もうとしていません。昨年の前駐日バチカン大使の司教団への講話「シノドスとシノダリティ」が良いヒントを提供していたのに、司教たちはスルー(無視)してしまいました。このような状態では、「霊による対話」も忘れ去られてしまうでしょう。
NICEの推進役をされた故森司教は、著書「信徒の霊性」で、信仰の土台(根本)を分かりやすく説明されています。多くの司教や神学者に見られる、神学用語で煙に巻くやり方ではありません。今読んでも納得する箇所がたくさんあります。 その一つが
「(祈りが)たった一瞬でもよい、魂が神に向けられているならば、それで十分なのである」。
今の司教たちの中に、霊性を”冷静”に語る方がおられるのでしょうか。
(南のカトリック教会の信徒より)