読者投稿の「さっぱりの日本のシノドスの道」に同感です。第二バチカン公会議の「世界に開かれた、共に歩む教会」の精神を受けて、約30年前に日本の教会が取り組んだ「NICE(福音宣教推進全国会議)」の事も、教会で聞いた覚えがありません。今回のシノドスの歩みも同じような道を辿りそうな予感が致します。
私の教区でも数か月前、司教と司祭たちによる「霊における対話」の試みがなされた、と教区報に大きく取り上げられていましたが、では、それを今後どのように進めていくのか。知らされていません。「霊における対話」を振り返っての感想に、果たして、そのような対話ができるのか、という不安の声があった、と聞きました。
司教と司祭のみの集まりでさえ不安を覚えるのですから、信徒と共にとなると不安しかない、ということかも知れません。いずれにせよ、「霊における対話」を教区が小教区レベルまで進めるためには、準備にかなりのエネルギーが必要とされるに違いありません。
私は自分の小教区共同体でも、10年前と比べて「シノダリティ(共働性)」が低下している、と感じています。戦争を体験した世代には、シノダリティを、ごく自然に、空気のように小教区に創り出していた司祭や信徒達が多くいた気がするのですが、世代交代が進むうちに、それまでの共通認識が薄らぎ、あるいは喪失している、と思う事が増えました。コロナ禍で分断を当たり前として、もしくは心地よく受け入れてしまい、問題を自分事とする力が衰えた気もします。今年の信者総会に集まった人の大半が後期高齢者、そのような現状です。
教区の号令を待っていては、いつになるか分かりません。「地区委員」が主催していた、小教区の地区ごとに集まる茶話会「地区のつどい」を、「シノドスの歩み」という意識をもって活用することなど、司祭、信徒が小教区レベルから具体的な取り組みをすることが必要な時期に来ていると思います。。
テーマをしっかり決めて逸脱しないようにし、誰かの批判にならないような配慮も求められますが、それでも、うまくいかないかもしれません。しかし、教皇の提唱される”シノドスの道”の歩みには、教会を構成する聖職者、信徒が互い声に耳を傾け、理解し、福音宣教に共に働く、そうした教会文化を創り出す、という狙いがあるはずです。
森司教の「信徒の霊性」を読んでおらず、手探り状態ではありますが、参加型プロセスによって教会に属する実感が強まり、風通しのよい、より良い共同体になれば良い、と強く希望しています。
(2024.7.5 東の教区の信徒、匿名希望)