(投稿)「死亡”事故”家族への心からの謝罪もない反基地活動家の一方的な話を聞くのが『沖縄平和学習』と言えるのか」

 長崎大司教区は今年も8月17日から19日にかけて「高校生・沖縄平和学習」を実施する予定である。しかし私は、この平和学習において高校生が毎年、辺野古テント村などで反基地活動家から一方的に話を聞かされるプログラムが漫然と続けられていることに、強い違和感を通り越して、不信感すら抱いている。

 「平和学習」とは本来、多様な立場の人々に触れ、話を聞き、生徒自身が考える力を育てるものであるはずだ。それが特定の政治的立場の宣伝の場と化しているのであれば、それはもはや「教育」とは呼べない。

 私は15年前、大学の課外授業で辺野古テント村を訪れた。その際、「希望すれば、活動家が操船するゴムボートに乗れる」とのことで、私も実際に乗った。ボートはかなりの速度で航行し、波浪注意報が出ていなかったため大事には至らなかったが、「安全面への配慮が十分になされている」とは、とても言い難かった。安全管理よりも”活動”そのものが優先されている、という印象は今でも鮮明だ。

 だが、私が本稿で問いたいのは、安全の問題だけではない。高校生を対象とした「平和学習」が、特定の立場の活動家による一方的な語りに支配され、「教育に必要な中立性」を完全に欠落させているのではないか、という点である。

 「平和学習」とは、特定の考えを生徒に「刷り込むための装置」ではない。様々な考えや価値観があることを認識し、自ら考え、判断する力を養うためのものでなければならないはずだ。ところが、長崎大司教区の「高校生・沖縄平和学習」は、辺野古テント村などで反基地活動家から話を聞く機会だけを毎年、律儀に用意する一方、基地と共に生きる地元住民、基地従業員、自衛隊関係者、安全保障の専門家といった異なる立場、考え方の人々の声を聞く機会がどれほど設けられているのか。ほとんど用意されていないのだろう。

 沖縄には、基地に反対する人だけでなく、基地との共存を選ぶ人、「沖縄の経済や日本全体の安全保障の観点から、基地は認めざるを得ない」と考える人も、「基地には反対だが、現実も見据えて判断せねばならない」という人も少なくない。沖縄の現実は、単純な基地反対で語れるほど、生やさしいものではない。

 沖縄や日本を取り巻く環境は戦後80年経った今、様変わりしている。中国、ロシア、そして北朝鮮という核兵器を持ち、軍事活動を活発化している専制独裁国が日本を取り巻き、日本の排他的経済水域を中国の軍艦が蹂躙し、尖閣列島のみならず、沖縄さえも自国の視野に入れようとする動きを強めている。ロシアは、全く正当性を欠いた軍事侵略をウクライナに続け、多大の死傷者を出している。

 このような中で、日本はどのようにして、そうした国の侵略の意図をくじき、平和を守ることができるのか。「平和学習」は、そのような現実、課題から目を背け、十年一日のように、ひたすら「平和」を叫び、「基地反対」を叫ぶだけの一方的な思考を、若者たちに刷り込んでいるのではないか。一部の政党や、一部の国を喜ばすことにもなりかねない。

 日本の若者たちには、多様な声、考えに触れる機会が保障されねばならない。教会が平和を尊ぶのは当然だが、現実の世界で、具体的にどのようにして、平和を維持し、育てていくのか、客観的に幅広い情報を集め、識別し、行動していく責任は、世界の、そして日本の、沖縄の一人ひとりにある。「平和」「基地反対」と叫べば、「平和」が守れるような幻想を、これから社会に出て、現実との対応を求められる若者たちに抱かせてはならない。

 さらに看過できないのは、この教育が現実の死者を出した出来事と”地続き”になっていることだ。

 2026年3月16日、辺野古沖で抗議船「不屈」と救助に向かった「平和丸」が転覆し、「不屈」船長で反基地活動家の金井創牧師と、「平和丸」に乗船していた同志社国際高校2年生の武石知華さんが死亡するという痛ましい”事故”が起きた。

 その2日前、金井牧師は、カトリック安里教会で「開会礼拝」を行っている。これは単なる偶然の”場所貸し”ではないのではないか。那覇教区は、どのような経緯と判断基準で、金井牧師に、安里教会聖堂の使用を認めたのか。教会という宗教施設が特定の政治活動家に使われた、と受け止める関係者もいる。教会はそうした疑念に答える責任があるだろう。

 二年前の6月28日には、安和桟橋の交差点で牛歩運動で交通妨害をしていた活動家を制止しようとした警備員の宇佐美芳和さんが、ダンプに巻き込まれて亡くなるという事件も起きている。

 いずれの事件についても、ヘリ基地反対協議会は武石さんや宇佐美さんの遺族に直接謝罪した形跡はなく、事件の検証や責任の所在を明らかにする姿勢も見せていない。それどころか安和桟橋の事件では、亡くなった警備員の勤務先の会社とダンプ運転手を相手に訴訟まで起こしている。人命や遺族への誠意より自らの活動の”正当性”を優先する姿勢は、キリストが示された思いやりや、いたわりの心から、程遠い。

 長崎大司教区は、まさにそうした団体・人物を高校生に接触させ、事実上の偏向教育を施している、と判断されても仕方がないだろう。

 誤解のないよう記しておくが、沖縄平和学習そのものを否定するつもりはない。戦争の歴史を学び、平和について考える機会は高校生にとって重要である。しかし、その教育が特定の立場に偏り続ける限り、幅広い知識を得て、自ら識別し、具体的な行動につなげる力を育てる、という、私たちが考える「沖縄平和学習」の本来の目的には程遠い。それどころか、生徒たちを、そのような”反対運動”の人々の一方的な考え、主張の代弁者に仕立て上げるだけではないか。

 長崎大司教区、そして受け入れ側である那覇教区には、どのような基準で訪問先や講師を選定し、高校生にどのような視点を提供しているのかを、信徒や保護者に対して明確に説明し、改めて行く責任がある。辺野古をめぐる二つの死亡事件を受けて、これまでの平和学習の内容や在り方について実際に検証を行ったのか否かについても、曖昧にせず明らかにすべきである。加えて、金井創牧師に安里教会聖堂を貸与した経緯、そして司祭・シスターが辺野古・高江の活動に度々参加してきた実態についても、那覇教区は説明責任から逃れることはできない。

 高校生が平和について真に深く考えるためには、一つの立場だけでなく、多様な価値観と現実に触れることが不可欠である。教会が「平和をつくる人は幸いである」と説くのであれば、その平和教育こそ対話と多角的な視点を体現するものでなければならない。そうでなければ、その言葉は空虚な標語に過ぎない。私はこのことを、長崎大司教区と那覇教区の双方に対して、逃げずに問い続けたい。

 なお、ある仲間が、長崎、那覇両教区に対して、「辺野古基地建設容認の地元住民の声も聞くべきではないか」「辺野古と安和桟橋でおきた二つの死亡事故に、どう向き合っているのか」、質問状を送った。だが、両教区からの、質問に対する回答はまったくない。この”沈黙”こそが、すべてを物語っている。

 ちなみに那覇教区長のウエイン・バーント司教は、先月23日の沖縄慰霊の日のへ和巡礼に先立つミサの説教で、この二つの死亡事故には一切触れず、「与那国から辺戸岬まで基地も、武器も要らない、戦闘機も飛んでほしくない」と繰り返すだけだった。現在の国際情勢の中で、その様に唱えるだけで、沖縄の、日本の、そして世界の平和が守れる、と本気で信じている、とはとても思われないが…

(南の島の一信徒)

 

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2026年7月7日