教皇は、どのような軸足に立って現代社会と向き合おうとしているのか
・・・『排他性と格差のある経済を拒否せよ』(福音の喜び)・・・
「『汝、殺すなかれ』という戒めが、人の生命の価値を保護するために明確な制限を設けるように、今日においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』と言わざるをえない。この経済は、人を殺します。」(福音の喜び、53、邦訳56ページ、傍線筆者)
これは、教皇フランシスコの使徒的勧告『福音の喜び』の中の一節である。
教皇は、『この経済は人を殺す』と記すが、その発言の真意については慎重に受けとめる必要がある。というのは、資本主義経済は、かってないほどの快適で便利な生活を人類にもたらしてきており、『人を殺す』どころか、多くの人々に人間らしく生きる道を提供してきているからである。
教皇も、その事実は認めている。認めているどころか、賞賛さえしているのである。それは、2014年、世界の経済界のリーダーたちが集まってスイスで開催されたダボス会議の際に送ったメッセージなどからも、明らかである。
「今の時代は、教育、情報通信、ヘルス・ケア等の分野で生活の質の向上を実現する大きな歩みを残していく時代だとして、賛辞に値するでしょう。さらに言えば、その他様々な分野においても、近代ビジネス活動が果たした役割が、大きな変化をもたらしてくれた。その役割の重要さを認識すべきです。近代ビジネス活動が、人類知性という無尽蔵の資源を、喚起し発展させてくれたのです」
しかし、教皇は、賞賛しながら、そこに留まらず、会議の参加者たちに経済の仕組みがもたらした問題点をはっきりと指摘していくのである。それは、教皇として使命感からにほかならない。
教皇の拠って立つ土台は福音である。教皇は、物質的な豊かさの中に幸せを求めいる一般の人々とも、利益を得ることを最優先する企業人とも異なる価値観の上に立っている。その土台の上に立って世界と向き合うとき、教皇が、現在の経済システムを手放しで賞賛することはできないのは、当然である。
教皇は、ダボス会議の参加者たちにメッセージの中では、経済のシステムがもたらしたマイナス面を「社会的排除を蔓延させた」と表現し、参加者たちにその克服を願った会議を求めたのである。
「とはいえ、それが成し遂げた成功、即ち、困窮者を大幅に減らしたという事実も含めて、近代ビジネス活動が成し遂げた成功が、社会的排除の問題を蔓延させたのも事実です。」(傍線筆者)と。
この『社会的排除』という表現で、教皇が何を伝えようとしたのかを知るためには、「福音の喜び」を繙いてみれば良い。そこで教皇は、資本主義経済の仕組みの何が福音に逆らい、それが、どのような闇を世界にもたらしたか、詳しく語る。
「飢えている人々がいるにもかかわらず、食料が捨てられている状況を、私たちは許すことが出来ません。これが格差なのです。現代ではすべてのことが、強者が弱者を食い尽くすような競争と適者生存の原理のもとにあります。
この結果として、人口の大部分が、仕事もなく、先の見通しも立たず、出口も見えない状態で排除され、隅に追いやられるのです。(中略)また私たちは、『廃棄』の文化をスタートさせ、それを奨励さえしています。 (中略)多くの人々が、社会の底辺へ、隅へ、権利の行使が出来ないところへと追いやられるのではなく、社会の外に追い出されてしまうのです」(福音の喜び、53)
教皇の拠って立つ論拠を理解していくためには、まずはここに引用した文章の冒頭の「飢えている人々がいるにもかかわらず、食料が捨てられている状況」という文言に注目してみることである。
国連食糧農業機関(FAO)の報告書(2015年)によれば、世界では約8億人もの人たちが栄養不足の状態にあり、1日に4万人が餓死し、その多くが発展途上国の子どもたちだという。その支援のためには約400万トンの食料が必要となるにもかかわらず、世界では年間13億トンもの食品が廃棄されているという。日本では、2013年の農林水産省の調査報告によると、年間1700万トンの食品廃棄物が排出されており、そのうち本来食べられるのに廃棄される食品は、年間約500~800万トンになるという。それは、国際的な食料援助に必要な食品の2倍近くになるという。
飢餓に苦しむ人に目を向けず、大量に食品を廃棄することは、明らかに福音の光に逆らう行為である。その背後には、利益を最優先しようとする経済の仕組みと自分たちの楽しみ・豊かさだけに目を奪われてしまっている現代人の生き様がある。
キリストが私たちに伝えようとするものは、それぞれの周りに生きている人への目覚めである。生きることの厳しさや辛さに堪えられず、叫びを上げて助けを求めている人々の存在に目覚めていくことの重要性である。
というのは、キリストのメッセージの中心にある人間の幸せは、富によってもたらされるものではなく、人の心と心が響き合うことによってもたらされる幸せにあるからである。そこにこそ人間の究極に幸せがあると言う確信のもとに、キリストは、私たちが、自分の世界だけの幸せに呑み込まれることなく、他者と心を通わせ、その求めに駆け寄り、寄り添っていくことの重要性を、私たちに伝えようとしたのである。
教皇は、現代世界の人々の心が、福音の心とは逆に、隣人には閉じられ、自らの幸せ、利益の追求だけに向けられてしまっている現状に心を痛め、それが、経済の仕組みと無関係でないことを見抜き、使徒的勧告を発表したのである。
福音の光に逆らう論理に現代世界がすっかり蝕まれてしまっていることは、世界の所得格差の拡大からも明らかである。
2014年の貧困撲滅に取り組む国際NGO「オックスファム(Oxfam)」の報告によると、世界の富の半数は、億万長者と呼ばれる1%の富裕者層が所持していおり、その差は縮まることはなく、年々拡大の方向にあるという。
教皇は、この格差をもたらしたものは、資本主義経済の根底に働いている「強者が弱者を食い尽くすような競争と適者生存の原理」であると喝破し、その論理の徹底が、格差の拡大をもたらし、貧しいものを相手にしない「排他の文化」を生みだし、「排他の文化」を育ててしまっていると指摘するのである。
確かに、資本主義経済が浸透してしまった社会にあって弱肉強食の論理は、能力に恵まれてないものを、人々の営みの外に負いやってしまう冷酷な側面をもっているのである。
たとえば、就職活動にあたっても、選ばれる者は、能力のある者である。能力のない者はその門前で拒まれ、就職しても役に立たない者は、窓際に追いやられていく。利益優先という旗の下に弱者を排除する論理が正当化されているのである。また職につくことが出来ない者は、収入を得ることが出来ない。収入の保障がなければ、生活設計も立てられない。また金のない者は、必要なものさえ手にいれることが出来ず、店頭でも相手にもされない。軽視されたり無視されたりして、最後は社会の営みからの排除されていくことになる。
こうして世界は、教皇が心を痛めているような、「多くの人々が、社会の底辺へ、隅へ、権利の行使が出来ないところへと追いやられるのではなく、社会の外に追い出されてしまう」現実になってしまうのである。
使徒的勧告の中で、信者たちに、現代世界の営みの中に、福音的な愛の息吹を吹き込んでいくことを呼びかけたのである。
(2017.6.29記 森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)
現在カトリック教会は、コロナを理由に64歳以上の人が、ミサに与かる事を禁じています。
それで私は電車で3駅離れた聖公会のミサに与かっています。
毎週そこに来るカトリックの人が増えています。
誰しもミサに与かりたいのです。
私は本来の(と私が信じている)カトリックの、明るくて、のびやかで、暖かく、優しく、広々とした世界が好きですので、カトリックに留まりますが、いつになったら所属している教会に行かれるのか分かりません。
この禁止事項は教皇からのものなのでしょうか?
+主の平安
宮崎様へ
+主の平安
宮崎様へ
ご指摘のことは確かに、これだけ長期化してくると難しい問題になって来ています。年齢制限は別に教皇の指示ではなく、実際の所、ご本人は83歳ですし、感染予防の措置を取りながら、条件は付いているでしょうが、年齢制限なく公けのミサが再開されているようです。年齢の問題も含めて基本は各教区の司教の判断です。現在の東京教区の場合は、菊地大司教があくまで命を守ることを最優先として、「高齢の方・持病(基礎疾患)のある方には、大変申し訳ないのですが、いのちを守ることを優先して、現在のステージ3の期間は、どうか自宅にとどまってくださるようお願いします」「 法的に高齢者とは、65歳(前期高齢者)以上の方です。今の段階ステージ3では、特に75歳以上の方にあっては、持病がないとしても、もうしばらくの間は、自宅でお祈りください。これから暑くなりますから、熱中症対策のことも念頭に置かれますようにお願いします」という「お願い」です。強制や義務ではありません。当方の所属している教会では、消毒、2メートルの間隔、換気、検温など厳重にしたうえで、75歳以上の方は、あくまでも本人の判断ですが、ミサでなく、時間の短い「言葉の祭儀」と聖体拝領ならOKということで対応しています。教会によっては、主任司祭の解釈が若干異なっている場合があるかも知れませんが。「64歳以上は禁じられている」ということはありません。一度、所属の教会の主任司祭に相談なさってはいかがでしょう。 「カトリック・あい」南條