教皇フランシスコは、二つの使徒的な勧告『福音の喜び』『愛のよろこび』と発表した。いずれも、多くの人々から共感を持って受け止められている.その二つとも、シノドス(世界代表司教会議)での司教たちの議論と提言を踏まえて、教皇がまとめたものである。
したがって、その中に込められた教皇のメッセージを正確に理解するためには、2回のシノドスではどのような議論がなされたのか、またそれが使徒的勧告にどのように反映されたのか、確認してみることが大事であるのは無論であるが、シノドスは、第二バチカン公会議前には、開催されたことのないものなので、そもそも、シノドスそのものが、現代のカトリック教会にとって、どのような役割を果たしているのか、確かめてみることは、現代教会がどのような歩みをしようとしているのか知るための参考になる。
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そもそもシノドスとは、ギリシャ語の「ともに歩む」という意味の言葉である。その歴史は新しく、1965年、第二バチカン公会議後、公会議の意向にそってパウロ六世によって設置されたものである。
それは、それまでのカトリック教会が、教皇とその下で働くバチカンを中心とした諸官庁の指導に縛られすぎて柔軟性を失い、絶えず変化してやまない世界の実態についていけなくなり、人々からも社会の営みからも遊離してしまったという反省から生まれたものである。
それ以前のカトリック教会が、どんなにバチカンの指導と方針に縛られてしまっていたか、そして硬直してしまっていたかは、ミサ等の典礼などの公式の儀式ではラテン語の使用が義務づけられていて、それぞれの地域の言語の使用が許されなかったり、検邪聖省などが設けられ、伝統的な教義に背くことのないように信者たちの言動が厳しく監視されたりしていたことなどからも明らかである。
カトリック教会全体を、教皇をピラミッドの頂点とした中央集権的な強固な体制に導いたのは、ピオ9世(在位1846〜1878年)である。それ以降、歴代教皇は、絶対的な権威をもった存在としてカトリック教会の頂点に座し、一般の信徒は無論のこと、教皇から直接任命されて世界各地で働く司教たちさえも、気軽に相談することも出来ない遠い存在になってしまっていたのである。
それでも教皇とバチカンが全世界のカトリック教会に対する責任を果たせたのは、世界各国に遣わされていた大使や各地で活動する宣教師・修道者たちから寄せられる情報のお陰であった。
今日とは異なって、20世紀の前半までのバチカンの情報収集能力は高く、世界のどこの国よりも抜きんでていたことは事実である。そうした情報によってバチカンは、世界各地の状況を知り、全世界のカトリック教会に対して指導力を発揮することが出来ていたのである。
しかし、そうした情報に基づいて作成される指導書簡や教書は、第二次世界大戦後、世界が複雑で多様になって行くにしたがって、それまでのような指導力を発揮することが出来なくなっていった。いくつかの理由からである。
まずその一つは、教皇やバチカンの指導者たちが、バチカンの外の社会の中に身を置いて苦労した経験が乏しく、そこで起こる出来事の背景や問題点についての十分な認識がないままに、世界に向けた指導書簡や教書を纏めていたことにある。
権威が無条件に敬われていた時代では、バチカンからの指導は素直に受け取られていたかもしれないが、20世紀半ばの学生運動などにみられるように、すべての権威の真偽が問われる時代になって、人々の自意識が高まるようになってからは、社会の現実体験の裏付けが乏しい文書は 説得力がなく、たとえバチカンからの文書であったとしても、そのままでは受け取られることの難しい時代になってしまっていたのである。
またアジアやアフリカなどの教会などでは、別の理由から、そのまま受け取ることが難しい文書が多くなっていたことも、見逃せない。というのは、ほとんどの文書が、キリスト教が深く浸透した欧米文化に慣れ親しんだ人々の感性と発想によってまとめられていたからである。そうした文書が、欧米とは全く異なる歴史や文化の中で生きる人々にしっくりしないのは、当然である。そのままでは反発を招かねないような指導が示されていたことも、稀ではなかった。
私の体験からしか推測出来ないが、自分たちには明らかに馴染まないと思える文書に戸惑い、その対応に困ってしまうような体験をしたことのない司教は、アジアでは一人もいない、と言っても過言ではない。
さらにまたバチカンからの文書や教書が、人々の心に響かなくなっていったもう一つの理由がある。それは、文書を纏める人々の、現実社会の過酷さについての理解不足と日々の生活の中でもがき苦しみながら生きる人々に対するあたたか眼差しの欠如によるものである。
産業革命以降、社会は経済を中心とした厳しい競争社会に変わってしまい、そこで生き抜くことが出来るものは能力に恵まれた者で、貧しい者はさらに厳しい貧しさの中に追いやられるようになり、貧富の格差はますます広がる一方の社会になってしまった。
そうした人々の辛さや惨めさは、妻子を抱えたこともなく、会社勤めをしたこともない聖職者たちに分かるはずがない。人々の痛みや辛さを実感出来ない聖職者たちが中心となって纏められる指導書簡や文書が、たとえ、その内容が教義的にはどんなに正しいものであったとしても、人々の心に響かないのは、当然である。
こうした19世紀から20世紀にかけて欧米社会での教会離れが進み、教会は人々には魅力のない存在になってしまっていたのである。
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教会が、現実社会から遊離し、そのメッセージが人々の心にストレートに響かなくなってしまった事実を直視し、教会の刷新を求めて開催されたのが、第二バチカン公会議だったのである。
公会議に出席した司教たちが、教会の社会からの遊離の克服を求めて提案した数々の具体策の中の一つが、シノドスだったのである。教皇と世界各地の司教たちと一堂に会して、分かち合い、議論する場を設けて、カトリック教会の中の風通しを良くしようと願ったのである。
シノドスはこれまで15回も開催されてきたが、公会議に参加した司教たちの当初の願い通りに、教会のそれまでのような中央集権的な固い体制はやわらぎ、対話型の共同体に変わり始めたのである。
シノドスでまず変えられたのは、教皇たちである。それまでは孤高を保ち、司教たちと気安く言葉を交わすことさえ難しかった教皇も、司教たちと率直に言葉を交わしたり意見を交換したりすることができる場を与えられ、その交わりを介して自らの心で直接世界各地の状況とその問題を感じとり、世界に対する認識を深めて視野を広げ、これまでとは異なった視点で物事を考えることが出来るようになったのである。
司教たちも恩恵を受けている。司教たちの多くは、それぞれ派遣された地域では孤独である。心を打ち明け、親身になって相談に乗ってくれる信頼出来るブレーンに恵まれている者は、実は少ない。また責任感の強い司教ほど、山積する地域の課題と真剣に向き合い、そのため、ともすると目先のことに追われて、広く世界を見る余裕を失い、視野が狭くなり、蛸壺的になっていく。
そんな司教たちにとっては、教皇に直接まみえ、教皇とともに考える場を与えられることは、何よりの支え、励ましになる。また他の地域で働く司教たちと交わり、議論し合うことによって、孤独感は癒やされ、視野も広がる。
シノドスのお陰で、教皇と司教たち、そして司教たち自身が、啓発され、相互理解と連帯感を深めることが出来るようになったのである。
さらにまた、シノドスの事務局が、一般の信者たちの声を吸い上げようとして、工夫したことも軽々しく見落としてはならない、新しい点である。その工夫とは、議題についての質問票を作成し、全世界の教会に公にし、協力を呼び掛けたのである。実に、その質問票には、一般信者も、個人的に答え、それを事務局に直接送付することもできるのである。
事務局は、全世界から寄せられた回答書を纏め整理して会議に提示する。司教たちは、それを参考にしながら、会議を進めていくのである。
こうして一般信者も、間接的ではあるが、シノドスに参加することができるようになったのである。それは、聖職者たちが中心となって歩んできたそれまでの教会の歩みの中では画期的なことなのである。
実にシノドスは、キリストから託された責任を、教皇、司教、一般の信者たちが、一つの丸いテーブルを囲んで、意見を交換し、互いに補い合い、ともに協力し合って果たそうという、これまでの教会に見られなかった新しい形を生み出し、その方向に向かって歩み始めているのである。
(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)