共に歩む信仰に向けて③ キリシタン史と現代・その1ー宣教師は「素晴らしい教え」を説いただけだったのか?

 日本のキリシタン史がどのように語られたかを振り返ってみると、私が大学生の頃の語り手は、片岡弥吉、結城了吾、高木一雄、H・チースリク、海老沢有道といった人たちでした。どちらかというと、教会の立場から、宣教師は素晴らしい教えを説き、信徒はそれを理解して受容し、立派な信仰を持ち、迫害を受け、殉教していったと、そんな感じだったと思います。

 ところがその後、80年代になって潮目が変わりました。高瀬弘一郎、佐藤彰一の論文が出てきました。研究の方法がもっと客観的、かつ実証主義的になったのです。宣教師の属した西欧世界とカトリック教会の構造といった背景を理解したうえで、宣教師(伴天連)の具体的な行動(経済的、宣教的、政治的な行動)と、それに対して日本人(大名や領主,その元にある武士や庶民)がどう応じたか、が叙述されるようになり、キリスト信者でなくても「読める」ものに変わったのです。

 

*キリシタンは何も悪いことをしてないのに迫害されて殉教したのか?

 「キリシタンの時代」は短期間でした。戦国時代末期の1549年ザビエルら鹿児島に到着してから、江戸時代の1639年にポルトガル船の長崎来航が禁止され、鎖国が完成するまでの間ですから、わずか百年にも満たない期間です。なぜこんなに短かったのか。秀吉による伴天連追放と江戸幕府による禁教令により徹底的に迫害されたからです。では、なぜそれほどまでに迫害されたのでしょうか。伴天連やキリシタンがそれなりに悪いことをしたから、ではないのでしょうか。

 日本という国のあり方に政治的に力で介入しようとしたので、自国を守るために日本の為政者はキリシタンを迫害したのです。キリスト教の発生後、ローマ帝国でキリスト者は何も悪いことはしていないのに迫害されて殉教しました。しかし日本のキリシタンや伴天連が迫害されたのは、迫害されるだけの悪いことをし、また伴天連や信徒を自由にしておくことは一国にとって危険だ、と判断したので徹底的に迫害したのではないか。そして、それは正しかったのではないか、というのが私の結論です。以下にその理由を述べていきましょう。

 

*宣教師が来日する西洋側の背景は・・

  西欧から伴天連がやってきたのは大航海時代です。高校生の参考書『詳説日本史研究」(山川出版社)の一節「ヨーロッパ人の東アジア進出」に、西欧は近代社会に移行しつつあったが、ヨーロッパに隣接する地域ではオスマン帝国などのイスラム勢力が存在し、経済的にも宗教的にも西欧キリスト教世界を圧迫していたので、ヨーロッパ諸国は香料を入手し、「アジアにキリスト教世界を拡大してイスラーム世界を挟撃する」ために、海路アジアを目指した、とあります。

 西洋中世史が専門の佐藤彰一氏も、13世紀にすでに教皇庁にはモンゴル帝国と連携してオスマン帝国を挟撃する構想があったこと、その後イスラーム教徒の世界であったインド洋にバスコ・ダ・ガマ(主キリスト騎士修道会の一員)が参入したこと、コロンブスが十字軍思想の持ち主であり、大西洋を西進しアジアの側からイスラームの背面を衝くという戦略的構想に取りつかれていた、と述べています。イベリア半島のポルトガルとスペインは常時イスラーム勢力と対峙していたからこそ、大航海時代となり、その精神で宣教師も来日することにもなったのでした。

*世界に進出する西欧の思惑は…

 「大航海時代、ローマ教皇はイベリア諸侯(ポルトガルとスペインの王たち)に布教保護権を与えたが、同時に彼らに対し、未知の世界に航海し、武力で切り拓いてそこを奪い取り、植民地として支配し、そこで貿易等を行なう独占的権限を授けた」(高瀬)。ローマ教皇は教権と俗権両方の頂点に立つ、と自認しており、王たちもそれを認めていました。当時の教皇たちによって世界(地球)はポルトガルとスペインによって二分されて―デマルカシオンという―支配されるようになります(1494年のトルデシリャス条約)。

 「異教徒を奴隷にすることも教皇は容認した」。イベリア両国は教俗一体化して国家的進出をしたのであり、その中に宣教師も組み込まれており、彼らの宣教の経費も貿易の収益や仲介料などから充てられたのであり、この点、ザビエルも後続のキリシタン宣教師も同じでした。ザビエルも、ポルトガル国王の保護とポルトガル商人の援助なくしては日本での布教は遂行できないこと、すなわち「貿易と布教の一体化」を痛感していた、と五野井氏は指摘しています。

*騎士修道会と世界征服

 ここで、騎士修道会について触れておきます。佐藤彰一『剣と清貧のヨーロッパ』の第1章の冒頭は「騎士修道会の起源は異教徒に対する征服戦争に求められる」で始まっています。この言葉は重要です。時は大航海時代です。エンリケ航海王子は騎士修道会の総長になり、教皇からアフリカのイスラム教徒と戦い、アフリカにキリスト教を布教するようにとの、きわめて十字軍的な使命を与えられました。

 エンリケはマデーラ諸島、アゾレス諸島を征服します。アフリカ南端の喜望峰を回ったヴァスコ・ダ・ガマも騎士修道会の所属です。インドへの航路を発見しますが、すぐその後、ポルトガルの艦隊(13隻、1000人の兵士)がインド西海岸(ゴア、カリカット、コーチンなど)に派遣され、武力制圧し、インド副王(インド総督)を置きます。歴代のほとんどすべての副王が、騎士修道会に所属し、土地の占領、駐留軍、要塞の建設などを行って、植民地化していきます。

 それから30年後、植民地にし、多くのポルトガル兵士が駐留しているゴアに、ザビエルは到着したのです(1542年)。ですからザビエルは、自分の目でインドその他のアジアの国や地域が植民地化されるのを見ているのです。

*イエズス会の精神は騎士修道会と同じもの

 
 イエズス会を作ったイグナチオ・ロヨラは『霊操』という本を書いています。そして彼の同志であるフランシスコ・ザビエルもこれに基づいて生きました。『霊操』の中で、この世の王と永遠の王キリストが並行して書かれています。

 「この世の王」は部下に向かって、私は「異教徒の地をことごとく従わせ」ようと思う。だから… あなたたちは卑怯な騎士にならないように」と。同様に「永遠の王」キリストも、「私は全世界とすべての敵を征服し」父の栄光に入ろうと決めた。だから私と一緒に来たい人は、私と共に働きなさい… 神は人間で満ちた地球の全面を眺め、人々が皆地獄に落ちるのをご覧になり、人類を救うために人となって地上に来て、働き、死に、そして位階制度に基づく教会を建てた。人は神と教会に従わなければならない」と。さらに、「世界の人々は地獄に落ちる」と考えていましたが、それは「異教徒は洗礼を受けていないから」と教えられていたからです。だから「世界中に宣教に行かねばならない」と。

 また教会は「位階制の教会」であるとロヨラは書いています。また告解に関する箇所では、上長の勧めとは、例えば、十字軍勅書、免償状のことであると。イエズス会がきわめて騎士修道会的で十字軍的な精神を持っていることがわかります。

 ついでに申し上げると、ザビエルは、ポルトガル王ジョアン3世に宛てた報告書の中で、「インドのゴアにも異端審問所を開設すべきだ」と進言します。ポルトガルはザビエルの提案を受け、ザビエルの死から数年後、ゴアに異端審問所を開設。「異端」とされた多数の旧ユダヤ教徒を火刑に処しています。

 以上、ザビエルらが、どのような背景をもって、来日したかを見てきました。次回は彼ら宣教師が何をしたか、それに対して日本側は、どのように反応したかを見ていきます。

【引用と参照】(拙稿「その2」の分もここに掲載します)

 高瀬弘一郎『キリシタンの世紀』(岩波書店)、五野井隆史『日本キリスト教史』(吉川弘文館)、浅見雅一『概説キリシタン史』(慶応義塾大学出版局)、高橋裕史『イエズス会の世界戦略』(講談社選書)、佐藤彰一『宣教のヨーロッパ』『剣と清貧のヨーロッパ』(中公新書)、三浦小太郎『なぜ秀吉はバテレンを追放したか』(ハート出版)、徳永恂『インド・ユダヤ人の光と闇』(新曜社、関根謙司「異端審問についての一考察」(文京学院大学)

(西方のある司祭)

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2025年2月28日