仏教信仰の厚いタイ国に長年生活している間に、自分の信仰が少し単純になったなぁ、とありがたい気持ちで思い返しています。
どこに行っても、目に留まる煌びやかな金箔と赤や派手な彩りの寺院が、ここかしこにあり、信徒が普段にお参りして、線香を捧げ、額ずき、祈る姿はたいへん印象的です。
多いなぁと思って、調べてみましたが、寺院は3万余。日本の寺院の方がその2倍以上(僧侶は13万余)も多いのです。タイの出家僧侶は29万余、早朝、霞んだ橙色の袈裟を纏い裸足で街を巡り歩き、跪座して捧げ物をする人々のために念仏する姿、高層ビルがそびえる大都会バンコクの巷に見られるこういう光景は、何と言い表したらよいのでしょうか。
カトリック信徒の信仰生活も同じ様に、荘厳な飾り付け、聖体、十字架や聖母子、聖画像に触れ平伏して祈る、感覚が生き生きとした信仰の表現です。
生活の節々で神仏と関わり、目に見えない次元との行き交いを仲介する僧侶、天と地の交歓を身近に感じながらの人生でしたが、タイの信心雰囲気には終始、何故か馴染めませんでした。けれど、私の信仰を深く、純粋に、研ぎ澄ませる励みになっていたことは確実です。
︎ 闇のどん底で私の信じる神は、私を『踊りませんか』と誘ってくださる方か?「自分の拝む、自分の信じる神によって喜んで踊れるか…恐ろしい神を信じている限りでは踊れません。要するに体が動かないのです」(『踊りませんか』=理辺良保行著 あかし書房=より)
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タイに派遣される50歳頃から、この問い掛けはいつも、私の内にこだましていました。「どんな状況にあっても、イエスが示された父なる神を信じて、人生を踊りたい」-この私の密かな願いが、感性豊かなタイの人々の信仰心に触れ、辿り着いた私の境地だと思います。
日本に戻って巷の純粋な信仰に触れました。『お祈りする時、住所を言い忘れたんです』と先日あるご婦人との会話、え? 「たくさんの方が祈るので自分の名前と住所をいつも言うんですよ、でないと神様が困るでしょう?」と。紙に描かれた十字架とマリア様を大事に隠し持ってお祈りしている仏教徒の方でした。何と純な…感動しました。
久しぶりに乃木坂の修道院で姉妹たちと共に祈り、生活しながら、今日-此処に-息吹いている素朴な信仰、本当に嬉しく思います。
水を掬うように大事に心にいただいて、爽やかな信仰の道を歩み続けたいです。いかなる境地においても、人生を踊りに誘って下さる方と共に、今を生きて捧げる、これに尽きるなぁ、と思います。
愛読者の皆さん、爽やかな霊の風に導かれ暑い夏を乗り切りましょう。
(阿部羊子=あべ・ようこ=聖パウロ女子修道会会員)