・Sr.岡のマリアの風(65)「沈黙」「祈り」「一緒に」(レバノンの平和のための考察と祈りの一日)  

  「バチカンで。レバノンのための考察と祈りの一日」という見出しで、2021年7月1日付『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』は、教皇フランシスコが、レバノンのキリスト諸教会(カトリック教会の多様な典礼の共同体、正教会、福音派教会など)の代表者たちをバチカンに招き、同国の平和のために共に祈り、考える一日を望んだことの事実だけでなく、その意味を掘り下げる、Giampaolo Mattei氏の記事を掲載しました。
(https://www.osservatoreromano.va/it/news/2021-07/quo-146/la-giornata-di-riflessione-br-e-di-preghiera-per-il-libano.html)Pope Francis and the Christian leaders of Lebanon during the Day of Prayer on Thursday

Pope Francis and the Christian leaders of Lebanon during the Day of Prayer on Thursday  (AFP or licensors)

    Giampaolo氏は、教皇フランシスコの問題解決、平和への「戦略(ストラテジー)」が、この世の基準ではなく、「素朴さ」(形式にとらわれない)、「沈黙」(祈り)と、兄弟として「一緒に」(兄弟的交わり)という基準であることを強調しています。

   Giampaolo氏は冒頭に書いています。以下、試訳。

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 「天におられる私たちの父よ(主の祈り)」と、沈黙の祈りの空間。レバノンの重要で緊急な問題に正面から取り組む前に。懸念と展望を共有しながら、最終的に平和と社会の安定に達するための、具体的な希望の道を明らかにするために。

 まさに中東の平和に活動の焦点を当てているジョルジョ・ラ・ピラ(Giorgio La Pira)氏が大切にしている「政治的戦略」「神に先ず語っていただかなければ、人間の言語が理解し合うことは難しい」という確信。

 … このように、今朝、7月1日 … レバノンのための考察と祈りの一日は、バチカンで、フランシスコの教導職の奉仕を印す、真の「イコン」の輪郭が描かれた。
レバノンの問題を議論し、最も堅い結び目をも解きほぐそうとするために、何よりもまず、沈黙が選ばれた」。

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 私は、それに関する聖座HPのいくつかの写真を見、教皇フランシスコの、聖ペトロ大聖堂での最初のメッセージを読み、Giampaolo氏の記事を読み、バチカン・ニュースサイトからの一分間の短い動画を見ながら、「この一日」の「沈黙」と兄弟的交わりが、その中で神が働くことの出来る「空間」となったことを知りました。1分間の動画(https://www.youtube.com/watch?v=nOICmyr2eGc)

 実際、教皇自身が住み、レバノンの諸教会指導者たちが泊っている「聖マルタの家」から、広場を横切って聖ペトロ大聖堂に入る場面の、一切の儀式を取り払った素朴さは印象的です。教皇フランシスコは、皆と一緒に談笑しながら歩いて大聖堂に入ります。その場面をGiampaolo氏は次のように描写しています。

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 「教皇と、レバノン在住の諸キリスト教共同体の代表者たちは、兄弟的交わりに満ちた友としてのスタイルで、8時半、皆が宿泊している「聖マルタの家」に集まった…
彼らは一緒に、巡礼のように-距離は短いけれど歴史にとっては長い巡礼―、素朴に、儀式ばらず(形式にとらわれず)、聖マルタ広場を横切り、『祈りの門』からバチカン(聖ペトロ)大聖堂に入った。美しいメタファー(比喩)をはるかに越えた、歴史の事実:人は問題を解決するために、つねに『祈りの門』を通る。

 大聖堂の信仰告白の祭壇(中央祭壇)の前で、教皇とレバノンの諸キリスト教徒の代表者たちは。一緒に『天におられる私たちの父よ(主の祈り)』を唱えた。教皇フランシスコがアラブ語で始め、それぞれが自分たちの言語で祈った。表現の多様性の中での一致の、実践的な証しのうちに。

 そして…沈黙。祈りの中で。耳を傾けるというスタイルの中で。隣り合わせで。

 それから、一人ずつ階段を降りた。大祭壇の下、ローマに来る前はアンティオキアの司教だったペトロの墓の前まで。一人ひとり、そこで永続的に燃えているランプから火を取って、ろうそくに火をともす。つねに本質的に素朴なしぐさで。

 あたかも、一緒に、つねに一緒に、光を求めるかのように。たとえ小さくても、歴史の夜を照らす光を。それから、再び沈黙。祈りの中で。ペトロの墓の前で。一緒に。

 最後に、常に一緒に」、教皇とレバノンのキリスト信徒の牧者たちは大聖堂を出て、会議が行われるSala Clementinaに向かいます。Giampaolo氏は「このようにして、討論が進行した。なぜなら、実際、作業は大聖堂の中で始まったから。沈黙の中で。神に空間を空けるために」と描写しています。

 午前、二回に分けられた非公開の会議の後、『再び一緒に』聖マルタの家で昼食を取り、午後の会議。そして、この一日は、『作業が本当の意味で始まった場所』、バチカン大聖堂で結ばれます。エキュメニカルな祈りと、教皇のレバノンの人々に向けた、一緒に平和の賜物を祈り求めるためのメッセージをもって」。

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 この『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』の記事は、教皇フランシスコの「平和」のための「戦略(ストラテジー)」がよく表れていると思います。私の、私たちの「平和へのプロジェクト」の基準を見直すためにも。

 私なりに、三つのキーワードを挙げてみました:沈黙、祈り、一緒に。「沈黙」:神に空間を空ける。神に先ず、語っていただく。「祈り」:「人間の」作業を始める前に、ともに、唯一の「天におられるわたしたちの父」に、まなざし、心を向ける。「一緒に」:同じ父の子ら、兄弟姉妹として、多様性の中で寄り添う。

 そのためには、次のことが求められるでしょう。

 「素朴に」:形式にとらわれず、大切なことに集中する。神に、互いに耳を傾けるために。「巡礼者」である自覚:私たちは皆、父である神の家に向かって旅をしている者、倒れ、間違えることもある、弱い者であることを、謙虚に受け入れ合う。

 教皇フランシスコの教えの中で一貫して現れる言葉:「fraternity:兄弟愛、兄弟的交わり」。それは、神の御子の内に「神の子ら」であるという私たちの存在の根源を受け入れることから始まるのでしょう。イエス・キリストの内に、聖霊を通して、父である神のいのちに生かされる者とされたことを感謝しながら。アーメン。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

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2021年7月4日