真ん中に置く「いのち」とは?
キリスト教の二千年の伝統。それをさらに超える、三千年以上、四千年といわれる、ユダヤ教の伝統が、なぜ、「これだけは譲れないもの」として、「いのち」そのものの尊厳を宣言し続けてきたのか?
ユダヤ教・キリスト教の中心にある、「でも」、「もし」無しの、条件なしの「いのち」そのものの尊厳の土台は、旧約聖書の「モーセ五書」、特に創世記の始めの三章の中に凝縮されている、ということも出来るだろう。
創世記の一章から三章には、物語の形式で、天地創造、人間の創造、人間の堕落、楽園からの追放が語られている。
人間が「造られたもの」であり、「土」「地の塵」に過ぎないこと。しかし、造り主である神の「命の息」を吹き込まれたこと、つまり、神の息によって生かされていること。生き物の中で、人間だけが、「神の像(イメージ)」をもっていること。「自由」である神の本質を共有していること。
神が、人間をご自分の「像(イメージ)」として造りながら、自身に「限界」を設けたこと―自由な者として造られた人間は、善を選んで幸福になることも、悪を選んで自らを滅ぼすことも出来る。神でさえ、ご自分が自由な者として造った人間の心に踏み込んで、強制することは出来ない―。
旧約聖書の中で表される、ご自分の民に対する「神の怒り」とは、だから、憎しみではない。それは、幸福のために自由を与えられた人間が、その自由をもって悪を選び、自分で自分を滅ぼそうとしている人間に対する、神の激しい感情、pietas、全存在を震わせる苦悩である。「わたしはお前たちが死ぬのを望まない。善を選んで、生きよ」と、神は、ご自分の民に嘆願し続ける。
ユダヤ教・キリスト教の伝統―四千年の伝統―は、神の言葉―聖書―に耳を傾け、思いめぐらしながら、「いのち」が、神の領域、神秘―人間の理論、知恵では計り知れないもの―であることを理解してきた。詩編作家たちは、神は「善― まったく善い方―」であり、ご自分が造られたものを、何一つ厭わない。神は、造られた一つ一つのものをいとおしむ。…とうたう。
一つ一つの命には、託された唯一の使命、意味がある。すべての人々の救い―ご自分の永遠の命に入り、その命を共有すること―を望む神の、救いの計画の中で、一人一人には、その人にしか果たせない、使命を預かっている。どんな状況の中でも。そしてその使命を、わたしたちは、この地上では、完全に理解することは出来ない。わたしの「いのち」は、神の領域、神秘だから。
わたしたちの信仰の先輩者たちは、三千年、四千年にわたって、この、神が土の塵から形づくり、ご自分の息を吹き入れた「いのち」、一つ一つのいのちを大切にするために、守るために、時に声を上げ、命を軽視する「死の文化」に対抗して闘い、自らの命さえ差し出してきた。
アウシュビッツの後に、神はいるのか?という問いかけに、ある現代ユダヤ教のラビ(先生)は、はっきりと答えている。
「アウシュビッツの後に、神はいる。あらゆることにかかわらず、わたしたち、ユダヤ人たちは、神を信じることを止めなかった。あわれみ深い神、ご自分の民に『わたしは、お前たちとともにいる』と約束した神を信じ続けてきた。それが、神はいる、という証拠だ」。
最も「小さくされた者たち」に、ほほえみかけ、手を差し伸べ、歩み寄るとき、わたしたちは、わたしたちの中におられる神に「気づく」。わたしたちが、神の像(イメージ)で造られた者であり、土の塵に過ぎなくても、神の息で生かされていることに、気づく。
教皇フランシスコは、「貧しい人々」-その中には、物質的に貧しい人々、障がいを負っている人々、尊厳を踏みにじられている女性、高齢者、子供たちが入っている―のために、わたしたちが、直接に、具体的に、何かの行動を起こすとき、わたしたちは、実は彼らが、貧しい人々が、わたしたちに多くのことを教えてくれる、ということに気づく、と言っている。
「貧しい人々」に差し出すほほえみ、やさしい言葉は、わたしたちを解放させる。自分の心配事、利益ばかりを考えて閉じこもっているわたしたちの殻を破り、自由にしてくれる。わたしたちが、本当に「神の子」として、自由な者として造られていることに、気づかせてくれる。
「いのち」の神秘は、だから、物語の中で、四千年の民の歩みの中で、わたしたち一人一人の歴史の中で、語り継がれていく。だから、「旅」。短い時間だけれど、この、いのちに触れる「旅」に、と。
(2018年11月28日)(社会福祉法人「聖家族会」・障がい者福祉施設の全職員の集いのために)
(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)