・Sr.岡のマリアの風 (79)「待望」と「驚き」ー 教皇が2日「死者の日」のミサで語られたこと

 教皇フランシスコは2日の「死者の日」、今年帰天した枢機卿、司教たちを記念するミサ中の説教で、マタイ福音書の25章を取り上げ、二つのキーワード、「待望(attesa)」と「驚き(サプライズ)」を中心に話された。

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 一つ目のキーワード、「待望」、待ち望むこと。マタイ福音書25章は、私たちキリスト者が何を待ち望んでいるのかを思い起こし、「天(国)」への待望を、日々、培うよう招いている、と教皇は次のように語られる。

 「私たちは皆、いつか、『さあ、私の父に祝福された人たち…」(マタイ福音25章34節)というイエスの言葉を聞くことを待ち望んで生きている。
私たちは、天に入るため、預言者イザヤが語る「すべての民のための祝宴」(イザヤ書25章6節参照)にあずかるために、この世の待合室にいるのです。
主は私たちの心を温める言葉を語られます。私たち自身の最も大きな期待を成就なさるからです」。

 主は、「死を永久に呑み込んでくださる」、「すべての顔から涙をぬぐい その民の恥をすべての地から消し去ってくださる」(同8節)。

 

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 教皇は、「天」への期待、楽園への渇望を育てるよう招く一方、自身に問いかけるべきだ、と言われる。「私たちの願望は、『天』と関係しているだろうか」と。

 「私たちは、過ぎ去るものに絶えず憧れ、渇望と欲望(欲求)を混同し、神への待望よりも、この世のさまざまな期待を優先させる危険があるからです…
風を追いかけるために、大切なものを見失うことは、人生の最大の過ちです… 私たちは『上(天)』に向かう歩みの中にあるのですから、上を見つめましょう」

 

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 「下にあるもの」、地上に属するものは、上(天)には行かない。最高のキャリア、最大の成功、最も名誉ある肩書や称賛、蓄積された富、地上のもうけ、すべては一瞬のうちに消え去ります。そして、それらの中に託した期待は、永遠に裏切られるのです」

 

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 どのように「上にあるもの」「天」を待ち望むかは、福音書(マタイ25章31-46節)が教えていて、そこに二つ目のキーワード、「驚き(サプライズ)」がある、と教皇は言われる。「いったい、いつ(そんなことを私がしましたか)?」という驚き。

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 「いったい、いつ?」という問いかけ。そこに「サプライズ」がある。「神の法廷」における裁きの基準は、貧しい人、見捨てられた人に対するいつくしみであるから。

 イエスご自身、言われるように。「この最も小さな者の一人にしたのは、すなわち、私にしたのである」(同40節)。

 「いと高き方」が、最も小さい人々の中におられます。天に住んでおられる方が、世にとって最も取るに足りない人々の中に住んでおられます。何という驚き!けれど、裁きはこのように行われます。なぜなら、判決を下すのはイエスだからです。イエスは、へりくだる愛の神であり、貧しく生まれ、貧しく死に、しもべとして生きました。イエスの尺度は、私たちの尺度を超えた愛であり、イエスの裁きの基準は無償性にあります」

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 主が急に来られたとき、準備が出来ていなくて慌てることがないように、また、「福音の味を甘くしないように(和らげないように)(non addolcire il sapore delVangelo)」警戒していましょう、と教皇は招かれる。

 「なぜなら、私たちはしばしば、自分の都合や快適さのために、イエスのメッセージを『軽減(緩和)』し、イエスの言葉を和らげる(水で薄める)傾向があるからです。 私たちは認めるべきです。福音に対して『妥協』することが得意なことを」。

 福音に対する「妥協」。「ここまでは、あそこまでは」いいけれど、それ以上は…という妥協。教皇の言葉は具体的です。

 「『そうだ』、貧しい人々を助けるべきだ。『でも』、不正にはそれなりに取り組まなければならないから、もう少し待った方がいいだろう。自らコミットしてしまうと、つねに邪魔が入り、もっとうまくできたはずだと気付く可能性があるから。 『そうだ』、病人や牢屋にいる人の近くにいるべきだ。『でも』、新聞やソーシャルメディアの一面には、もっと差し迫った問題がある。なんで私が、彼らのことを気にかけなければならないのか。『そうだ』、移民を受け入れるべきだ。「でも」、それは一般的に複雑な問題で、政治に関わってくる。私はそのようなことに首を突っ込みたくない…」

 このように私たちは、いつも妥協する。『そうだ、もちろんだ』と言いながら、結局は、『ノー』と言う。それが、私たちが福音に対してする「妥協」であり、私たちは、「そうだ…でも…」と、「Yes」で始まり「No」で終わる人になってしまう、と教皇は言われる。

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 そうして私たちは、「先生(Maestro)」であるイエスの、単純な弟子であることから、複雑な先生たち(maestri)に成り下がってしまう。

 「たくさん議論して、何もしない。答えを、十字架像の前ではなく、コンピューターの前で探す。答えを、兄弟姉妹たちの眼差しの中にではなく、インターネットの中に探す。解説し、議論し、理論を披露しても、貧しい人の名前さえ知らず、何カ月も病人を見舞うことなく、誰かに食べるものや着るものを与えたこともなく、助けを必要としている人と親しくなったことも、ない」

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 教皇ベネディクト十六世は、最初の回勅『神は愛』(2005年)31項で明確に書いている。

 「キリスト教の愛のわざは、何よりもまず、よいサマリア人のたとえに示された模範に従いながら、具体的な状況の中ですぐに必要とされていることに単純に答えます… 人は、今ここで人間らしく行動することを拒絶しながら、世界をよりよいものにすることは、できません。世界をよりよくすることに貢献したいなら、まず、今、自分自身で善を行わなければなりません。それも、全身全霊をもって、可能な限りいつでも、しかし、党派的な戦略や計画とは無 関係に、それを行わなければなりません。

 「キリスト信者の計画」は、「よいサマリア人の計画、イエスの計画」でもあり、「見ることのできる心」だ、とベネディクト十六世は言われる。そして、「どこで愛が必要とされているかを見、そこから行動する心」である(同31項)。

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 「いったい、いつ?」、と、「その日」、正しい人も、不正を行う人も、驚いて問いかける。そして、答えはただ一つだ、と教皇は言われる。

 「『いつ』は『今』です。このミサ聖祭から出て行く時です。今、今日。それは私たちの手の中に、私たちの慈しみの業の中にあります。問題の明確化や、洗練された分析の中にでも、個人や社会の正当化の中にでもなく、私たちの手の中にあります。私たちは責任があるのです」

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 「その日、その時は、誰も知らない」とイエスは言われる(マタイ24章36節参照)。その「待望」をどう生きるか。それは福音が説明している。

 「人は、愛することによって、神のところへ行きます。神は、愛だからです」。

 今、今日、この世の貧しい人、傷ついた人の間で、神は私たちを待っておられる。そして、その人々は、私たちのすぐ近くにいる。「見ることのできる心」を祈り求めたい。「どこで愛が必要とされているかを見、そこから行動する心」を。後で、明日、誰か他の人が…と言い訳し、気づかぬうちに、主が通り過ぎてしまわないように。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)=聖書の引用は「聖書協会・共同訳)によります(「カトリック・あい」)

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2022年11月4日