・Sr.岡のマリアの風 (63)聖母崇敬は私たちに「真の奇跡」-回心-をもたらす

「母」であるマリア

 聖母崇敬は、奇跡や不思議な現象を求めることではない。東方教会で、マリアは「神の母」(Theotokos)として呼び求められている。マリアは「母」。ゆえに常に「子」との関係の中にいる。マリアの子、イエス・キリストのうちに、私たちは神の子らとされた。「頭(かしら)」であるキリストに、切り離せない絆で結ばれている「体」である私たち。

 ゆえに、母であるマリアは、御子のうちに、私たちすべての子らと関係している。私たちすべてを、母としての気遣いと責任をもって見守る。東方教会イコン画の中で、一人で描かれているマリアはほとんどない。

 母はいつも子とともに描かれる。例外的にお告げのイコンがあるが、しかしそれこそまさに、最も緊密な方法で「子」と結ばれている「母」の画でもある。つまり、子が母の胎の中に宿った瞬間。

 祈りは奇跡や不思議な現象を求めることではない(教皇フランシスコ)。教皇フランシスコは、最近の祈りについてのカテキズムの中で…「マリアとの交わりの中で祈る」(2021年3月25日)「聖人たちとの交わりの中で祈る」(4月7日)「祈りの先生としての教会」(4月14日)。

 また、「イエスの聖テレジア教会博士宣言50周年、国際会議(アヴィラ)へのメッセージ」(2021年4月16日『オッセルバトーレ・ロマーノ紙』イタリア語訳掲載)の中で、キリスト教信仰は、ゆえにキリスト教の祈りは、「奇跡や不思議な現象」を求めるものではなく、「キリストとの一致」のためにあること、さらに、キリストとの一致は、人々に、世界にキリストの愛を運ぶよう、私たちを「出て行かせる」、キリストの愛のわざを行うよう、私たちを「駆り立てる」ものだ、と強調する。

 つまり祈りは、私たちの思いをキリストの思いと一つにすること、いやむしろ、祈りの中で、私たち自身を聖霊に開くことによって、キリストの思いによって、私たちの思いが形造られるにまかせること、キリストの考え方、メンタリティーによって、私たちの考え方、メンタリティーが形造られるにまかせること、
キリストの行い、キリストの生き方によって、私たちの行い、私たちの生き方が形造られるに任せることーだろう。

 このようなダイナミズムの中で、私たちの祈りが本物かどうかは、その祈りの「実り」で分かる、と教皇は言う。

 祈りが私たちを、自分の中に閉じこもらせ、「私とイエス」の個人的関係にのみ留まらせるなら、それは、まだキリストとの一致に達していないことであり、未熟な祈りである。

 キリストとの一致は、「私とイエス」の関係に閉じこもることではあり得ない。キリストとの一致は、キリストの思いを私の思いとすることだから。

 それでは、キリストの思いとは何か。イエスご自身、明言している。イエスの思いは、「父」の思いと一つである。「父」はこの世を愛し、私たちを愛するあまり、ご自分の独り子を世に遣わした。時が満ちた時、「女」から生まれさせて。

 それは、世を、私たちを裁くためでなく、救うため、「子」によってすべての人をご自分の子とするため、ご自分の命―永遠の命―にあずからせるため、ご自分のところ-父の家-に迎え入れるため、である。

 キリストの思いは、だから、「すべての人の救い」、すべての人の真の幸い、それ以上でもそれ以下でもない。キリストの思いを私の思いとするとき、ゆえに、「私だけの救い」「私の家族、友人、グループだけの救い」に留まることはできない。キリストの思いは、私たちを「駆り立て」、人々のところに、この「善い知らせ」、救いの知らせを伝えるよう「出て行かせる」。

 「善い知らせ」:神はいつくしみ深いお父さんであり、私たちがどんなに弱く、みじめで、罪深い者であっても、恐れることなくご自分のところに戻って来るよう、忍耐強く呼びかけ、いつも、両手を広げて待っているお父さんであること。

 この、キリスト教の根源にある真理を、私たちは毎年、特に主の復活祭と、その準備(四旬節)と祝い(復活節)の中で原点に戻って、もう一度、何度も、見つめるのだろう。

 主の復活のとき、マリアはどこにいたのか。今年の復活節、私は特に、「マリアはどこにいたのか」を思い巡らした。復活節の典礼の中で、主の母マリアは存在しないかのように見える。マリアは「存在しない」のではなく、生まれつつあるキリストの民の中に「溶け込んでいく」とは言えないだろうか。

 第二バチカン公会議は、マリアを、教会の典型、模範、姿(イコン)、始まり…として、また、地上を旅する神の子らが天の国に入るまで、絶えず気遣う母として示した。

 教皇フランシスコは、上述の話の中で、マリアが、そして聖人たちが、「私たちの側」、教会の中にいることを強調している。主の母マリアでさえ、神と人との間の唯一の仲介者であるイエス・キリストの「横」には並ばない。あがないのわざは、唯一、絶対的に「神のわざ」である。三位一体の神のわざである。

 マリア自身、「私は主の仕え女です」、つまり「主に仕える者」であって同等の者ではないことを明言し、「お言葉通りこの身になりますように」、つまり「主の思いの通り」-それは常に人間の思いを超える-、私の存在全体になるように、と答えを差し出した時から、徹底的に、人間の知恵では「分からない」、理解できない、時に人間の知恵と逆行する神の知恵、神のやり方を受け入れていく。神のやり方が、自分の存在の中で実現するように、と。

 マリアは、神の民イスラエルの娘である。神の慈しみは永遠であること、神の約束は、時が来れば必ず実現することを、両親から、また民の共同体の中で教えられてきた。

 神に見捨てられたかのように見えた十字架の時にも、マリアは「しるし」を求めず、神の慈しみは永遠であることを信じ続けた。これが、マリアの真の偉大さである。

 マリアは天からの「しるし」を求めなかった。神はマリアに、何の奇跡も行わなかった。しかし、よくよく考えてみるなら、マリアだけでなく、イエスの「ために」さえ、何の奇跡も行われなかった。

 イエスの「奇跡」は、常に「しるし」であり、それはご自分のためではなく、人々のため、弟子たちの信仰が成長するためである。主の変容の「奇跡」は、使徒たちの信仰を固めるため、ラザロの復活の「奇跡」は、ご自分が神であること、永遠の命をもっていることを示し、人々、特に使徒たちに、ご自分の受難・死の中で信じ続けることを可能にするためである。

「教会の母」聖マリア

 イエスの受難・死の中で、真っ暗闇の、すべての希望が消えたように見える中で信じ続けることが出来た唯一の人間、それがイエスの母、マリアである。

 イエスが遺言で-遺言の中でも最後に―、ご自分の母を、ヨハネの姿の中に集中する、ご自分のすべての弟子の母、さらには、世の終わりまで存在するすべての人の母と制定したのは、母の信仰の中に、すべての弟子の信仰の最高の実現を見たこともあるだろう。

 それが、教皇フランシスコが、教会の伝統を継承しながら、典礼暦に「教会の母」マリアの記念日を加えた理由の一つである。「教会の母」の記念日の日付、聖霊降臨の祭日の翌日、復活節から年間に戻った最初の月曜日であることは意味深い。

 マリアはまさに「年間」の女性、「普通の日々」の女性である。神のわざである復活の実りが、教会の中で実現され、経験される時。聖霊降臨によって、人々に、世にキリストを運ぶよう派遣されていく教会は、マリアの中に、「あがないの卓越した実り」、キリストに形造られた「新しい人間」、旅する神の子ら(私たち)にキリストを示し、父の家に集うまで気遣う「母」を見つめる。

 マリアが教会の母である、というのは、肩書でも飾りでもない。それは彼女の信仰の実りであり、私たちに対する、さらにすべての人に対する、神の慈しみの「しるし」である。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女、教皇庁立国際マリアン・アカデミー会員)

(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用しました=「カトリック・あい」)

→Sr.岡の4月のトピック「PAMI(教皇庁立国際マリアン・アカデミー)オンライン会議」▷

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2021年4月30日