・Sr.岡のマリアの風 (51)「何に向かって…」”コロナ後”の新しい生活スタイル

「何に向かって歩んでいるのか…」。

 人類の歴史に残るパンデミックの中で、「わたし、わたしたちは誰なのか」「何に向かって歩んでいるのか」「何が本当に大切なのか」…という普段は何となく面倒くさくて、考えることを避けていた問いかけに、じっくり向き合う。

 神の民のアイデンティティーは「大きな物語(ストーリー)」に属していることだ、とユダヤ・キリスト教伝統は教える。

 わたしだけでも、わたしの民族、国だけでもなく、わたしの時代だけでもなく、時間と空間を超えた「大きな物語」。

 旧約のアブラハムの物語は、わたしたちの物語であり、モーセの物語は、わたしたちの物語、新約のヨセフ、マリア、使徒たち…の物語は、わたしたちの物語。

 ”コロナ後”の新しい生活スタイル、と聞いて三つのことが頭に浮かんだーシンプル化する、感謝する、夢を引き継ぐ。

「シンプル化する」

 大切なものが何かを意識しながら、大切なものを中心に、祈りも生活もシンプル化する。「シンプル化」… 英語のsimplifyは、簡単[単純]にする、ということだけれど。生き方のシンプル化、と言うとき、それは単なる単純化、簡素化だけではない(と、わたしは思う)。

 真のシンプル化は熟考から生まれる。苦労して考え、模索することから生まれる、と少なくともわたしは思う。じっくり読みたかった本を読む。何が大切なのか、どこに向かっているのかを、深く息をして、考える。

 そんなことを考えていたら、齋藤孝氏の言葉に出会った。

 「問題解決を行っていくためには粘り強い思考力が必要となる。困難を目の前にしてもひるまずに取り組み、持続的な思考を維持する…」(斎藤孝『新しい学力』:伊勢雅臣『日本の教育』212頁に引用)。

 生き方をシンプル化し、それを継続するためには、原点に戻り、「粘り強く強く思考し」、大切なものを再認識することが必要ではないか。

 わたしたちの共同体では、この期間、パンデミック対策のため、典礼、その他の祈りを「シンプル化」した。簡略化した、というより、政府の方針、カトリック教会の方針を受け入れながら、共同体として大切なものは何かを考え、優先順位をつけ、大切なものに集中した。典礼の中で、主日と平日のメリハリをつけた。歌を減らし、歌う場合も、オルガン伴奏を単音にした。

 何年か前、広大な自然の中にある観想修道会で、シスターたちが単音の伴奏で、美しい声で歌っていた。素朴な神への賛美を思い出した。

 日々の食卓のために、自給自足とまではいかないけれど、地元の農家の方にも手伝っていただき、畑に野菜の苗を植え、収穫する…

「感謝する」

 そのような「シンプル化」を通して、共同体のありがたさを体験する。小さなことを「感謝する」心を学ぶ。

 共同体で共に祈り、働き、食事ができることを感謝する。

 メディアを通して、教皇フランシスコの呼びかけをリアルタイムで聞くことができることに、感謝する。

 恩人、友人の方々がくださる魚、野菜、果物に、感謝する。

 共同体の姉妹が、みんなのために作ってくれた手作りマスクに、感謝する。

 祭壇を飾る、姉妹が育てた花に、感謝する…

「夢を引き継ぐ」

 「感謝する」なかで、いただいた宝を、次世代に、将来に引き継いでいく使命、義務を自覚する。「わたし」「わたしたち」の夢は、次の世代、将来の世代のためであってこそ意味がある。それが「大きな物語」に属している、ということだ。

 「インプット」したものは、「アウトプット」して初めて、「生きたもの」となり、人々を「生かす」ものとなる。どんなに素晴らしいものであっても、「博物館の化石」では人を生かすことは出来ない。

 アウトプットしないと、その時、「わたしが」深く感動したことでも、次世代の夢にはならない。いつのまにか忘れ去られ、消えていく。先人から引き継いだ夢を人々と分かち合う、人々に向けて「アウトプット」する… その時、その夢は、次世代に引き継がれていく。

 以前も書いたけれど、「マリアのミニ動画」を始めたのも、「真のマリアの姿」―「わたしたちの一人」としてのマリア、「神の民の大きな物語」を共に歩んだ姉妹としてのマリアの姿―を伝えていくことが、わたしが「次世代に引き継ぐ」ものとして託された使命、義務だと思ったから。

 思っているだけでアウトプットしなければ、いつまでも実現しない。だから、「今、動こう」と決心したから、わたしが先人から受け取った「夢」、次世代に受け継ぎたい「夢」は、わたしたちの存在の奥底に、心の内奥に刻み込まれた、神の「夢」。

 わたしたちの真の幸いを望む、神の夢。わたしたちが日々の歩みの先に見つめている「ゴール」。神がわたしたちに約束した「場」。約束の土地、父の家、天のエルサレム… 復活の主の霊の実り。

 シンプル化する、感謝する、夢を引き継ぐ… 三つのことを考えていると、「新しい生き方」とは、まさに、今、教会の典礼が生きていること、復活の主の霊に、今、この場で「生かされる」生き方だ、と言えるだろう。

 教皇フランシスコは聖霊降臨の祭日に、復活の主が、弟子たちに差し出した最初の言葉、「あなた方に平和があるように」を黙想した。主が弟子たちにもたらしたのは、赦し、和解であって、叱責でも、「お説教」でもない。

 弟子たちの最初の共同体 わたしたちの「原型」 は、主によって「赦された」「和解された」共同体。わたしたちは、すでに復活の主の霊において、洗礼を受け
赦し、和解を受けた。

 洗礼を受けたわたしたちにとっての「新しさ」は、何か新しいものになる、というよりは、わたしたちが何であるかを、新たに「意識」することかもしれない。「意識」しなければ、スイッチがオンにならない。ずっと檻の中に入っていると、檻の扉が開いていても出ることが出来ない。出ることを知らないから。

 一歩、外に出るためには、扉が開いているだけでは十分ではない。「わたし」が、わたしの足で、一歩を踏み出すことが必要だ。

 エジプトの奴隷状態から解放させてもらったイスラエルの民は、ちょっと困ったことがあると、「昔は良かった」と偽りのノスタルジー(郷愁)に浸った。その物語は、しかし、「わたしたちの」物語でもある。

 ユダヤ教は教える。自由になることよりも、自由の状態を保つことは、もっと難しい。毎日が、「わたしにとって」良いことばかりではないから。まわりのことがら、まわりの人は、ほとんどの場合、「わたしの」思う通りにはならないから。被害妄想も、自己の過大評価も、どちらも結局「わたしが中心」の世界だ。

 人里離れた、ナザレの小さな村。社会的に何の権利ももたない、一人の処女(おとめ)、マリア。神が遣わした天使(メッセージを運ぶもの)に、マリアは「質問」する。まだ、夫のヨセフと一緒に住んでいないのに、身籠って男の子を産む、と告げられ、「どのように」それが起こるのか、と。

 マリアの質問は疑いではない。マリアが質問するのは、「わたし」の思いではなく、神の思いをよりよく知り、神の思いをよりよく果たしたいから。

 実際、天使は、マリアの質問に答える。でも、その答えは、まったく人間の理性では理解できないこと。神の霊が、神の力が彼女を覆う… まさに、神の山、シナイに、密雲の中で神が降ったように、あり得ないこと。理解を超えること。

 でも… もはやマリアは質問しない。マリアは「黙する」。神の「真剣勝負」を前に、マリアは黙する… わたしは、この場面に留まることが好きだ。あの、マリアの沈黙。神の前での、小さな被造物の沈黙。

 神の思いは、神の夢は、あの、マリアの沈黙の中で実現を始めたのだ。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2020年6月2日