“ The word Satan is so anthropomorphic( 悪魔という言葉はあまりにも人格化されているので)”
ある男が、一人の「不可知論者」に、そう話した。不味い「パサついたパン」(dry bun)を不可知論者が捨てるところで、カトリックのその男と目が合う。第二次世界大戦が終わった後の憂鬱な夜汽車の中で、そのカトリックの男が自分の少年時代を語り出すのだった…。
これは、グレアム・グリーンの「21の短編」に収録されている「THE HINT OF AN EXPLANATION」という作品の一節だ。イギリス聖公会からカトリックへ改宗し、ノーベル文学賞候補であり、受賞は叶わなかったものの他の作品で映画化もされた作家だが、晩年は児童買春などにも手を染めていて、作品と作家の人生は別としても、私にとって、扱う優先順位が低い作家だ。しかし、この小説は、最もカトリックらしい、と言われているだけあって、評価が高い。
物語に戻ると、不可知論者の男から見れば、出会った男は幸福そうに見えていた。それは「カトリック信者特有」という偏見も込められていて、「幸福な男」との対話は退屈凌ぎだった。そのカトリックの男が語る「神の話」は不可知論者にとって、つまらない話だった。それを察したのか、男は言葉を足した。「目に見えないものを言葉にすると陳腐になってしまって、それについて私はヒントしか与えられません」と。
それで、男は「悪魔」について語り始めた。「それは言葉で表現するのには限界がありますからね」 と幸福な男は話を続けるが、それで不可知論者は漸く、面白くなってきたと、前のめりになって聞き始める。
幸福な男、『ディヴィッド』は子供の頃に小さな教会のミサの手伝いをさせられていた。サープリスを着て… この村はカトリック信者が50人程度と少なく、伝統的にこの土地ではカトリック信者は憎まれていた。何故なら16世紀のプロテスタントの殉教者が火炙りになったという過去があったからだ。
その男のニックネームは「ポーピイ・マーティン」、教皇(ポープ)と関連づけられていた。少年は、ミサの儀式と衣装も乗り気になれず、それと同時にミスも恐れていた。少年はある日、一軒のパン屋の亭主と目を合わせてしまう。その男は、カトリック教徒への憎悪の念にとらわれていて、見た目が醜かった。それに彼は自由思想家で、カトリック信者はその店でパンを買おうとはしなかった。
その男は、少年に目をつけて、声をかけ、菓子パンを渡した。彼の家には立派な「鉄道模型」があった。「好きに遊んでいい」と言われ、少年はその男の家に通うようになる。その度に、男はパンをご馳走してくれたが、ある日、カトリックの聖体拝領で配られるホスチアと同じものを作った、と食べさせた。それで「これと教会のものは同じか」と聞いた。少年は「違う」と答えた。
男は「なぜだ?」と理由を尋ねたが、少年は「聖別(consecration)されていないから」と答えた。男は「顕微鏡で見れば同じだろう?」と生物学者のように言った。それに対して、少年は「偶有性(英:accident,希:endekomenon)は変化しない」と顕微鏡でみても無駄だ、ということを示そうとした。男は「だったら、聖別されたパンを食べてみたい。だから、持ってきてくれないか。そうしたら、この鉄道模型をお前にあげるよ」と言った。
男の目的は「あんたたちの神様がどんな味がするのか食べてみたい」ということだが、少年は、全て完璧に揃っている鉄道模型の誘惑と、同時に、どの家でも入れることができるマスターキーとナイフで脅されたのでホスチアを盗み出してしまう。
けれども、少年は、自分の部屋に閉じこもり、男には会いに行かなかった。その晩、パン屋の男は、少年の家まで来てマスターキーを使い、部屋の中まで入り、月の光を浴びて少年を見下ろしていた。「デイヴィット、どこにある」と男は囁いた。少年は、椅子の上に置いてあるホスチアの場所を教えなかった。あまりにも拒むので、男は「お前を切り刻む」と脅し始めた。少年はそれで、ホスチアを椅子の上に取りに行って呑み込み、「呑み込んでしまったよ」「もう帰ってよ」と言った。すると、その男は涙を流して、敗北者として闇の中に去っていった。
一度、神のもと(教会)から持ち去られた聖なるものは、そうではなくなってしまうのか? いや、聖なるものは、聖なるもののままだ。離れてしまったもののように思えても、聖なるものに戻ろうとする意志があれば戻ることができる。
少年は、ホスチアを持ち去る時も殺人による罰せられる罪よりも、今、自分がやっていること、パン屋が言っていることは重たい罪だ、と言うことに気づいてしまった。今まではミサを「繰り返されている退屈なもの」「日常に溶け込んでいるもの」としか思っていなかったが、この男と関わることで、自分の聖なるものへの自覚が湧いてくる。少年は、恐らく自分を利用しようとする存在に揺らされることによって、今まで漠然としていた儀式の意味を再確認した。
この話の中で、私の目に止まったものは、「罰せられない罪」に対してだった。
2023年の9月19日にカトリック中央協議会が出した「2022年度日本の教区における性虐待に関する監査報告」は、「カトリック・あい」のサイトでも指摘しているように、「監査報告」とはとても言えないものだった。それについてのコメントは、神父でもない、専門家でもない私は敢えてしないが、言えるとすれば、「罰せられない罪」について、「THE HINT OF AN EXPLANATION」には、このように書いてあったということだ。
「人殺しなどというのは微細な罪で、それに対しては相応の罰が用意されているが、自分がした行為に対しては、どんな罰が相応しいのか考えることもできないほどではないか」
殺人には刑法が適用されるが、それと同時に、魂の審判もある。魂の審判は、直接目に見える形で罰せられないことに気づいた。神と共にしている、ということを忘れてしまうことへの罰は考えつかない。もっと言えば、教会法の「違法行為」には、重大な欺きがはらんでいることを言い表している。
それでも私は哲学的にも考える人間なので、他の宗派を押し除けて、カトリックを「真」だと「一旦」定義はしないとするが、これは確かだと思うのが、イエスの名前で体系作られた教理や教会法を無視した「赦し」は、アウフヘーベン(止揚)すら充分にできないということだ。「アウフヘーベン」とは、弁証法の中にあるヘーゲルが提唱したもので、テーゼ(正)とアンチテーゼ(反)によってジンテーゼ(合)に導く、と言うものだが、少年は見事に、アウフヘーベンをこなしていた。
パン屋の男は「お前たちが儀式で食べているものと同じものを作った」(テーゼ)と言った。しかし、少年は「それは聖別されていないから違う」(アンチテーゼ)と答えた。男は「顕微鏡でみたら一緒じゃないか」(テーゼ)と言った。少年は「偶有性は変化しない」(アンチテーゼ)と反論した。
では、この話のジンテーゼは、なんだったのか。少年は、殺される可能性があっても、ホスティアを渡さなかったことによって、聖別の意味を表したのである。
私たちは、カトリック外部からも、そして内部からも問われている。それも、多くのことを問われている。性的虐待といった犯罪行為だけでなく、信仰の神秘も、宗教の存在意義も問われている。けれども、今回の中央協議会の不十分な発表も、テーゼに対して、監査内容が不十分だったことによって、アンチテーゼとしても成り立っていない、と言うことを忘れてはならない。
グレアム・グリーンの作品は、パン屋の主人が悪魔の化身だったのか、それとも単なる悪意がある存在だったのか、現代でも通じるようによく出来ている。常に、この少年も、悪意ある存在を超える罪、裁かれない罪を背負う可能性を示唆している。
鉄道模型は全て揃っていて、床に敷くレール、まっすぐなレール、カーブしたレール、小さな駅にはポーターと乗客がいて、トンネルや、歩道橋や、信号機、線路の端にはもちろん車止め、何よりも転車台、転車台を見ると涙が出るほど少年は気に入っていた。男と少年がまるで世界を見下ろすように、鉄道模型と聖餐式を両天秤にかけたことも秀逸だった。
大人になった少年は、線路が交差するように、不可知論者と出会った。不味いと思ったパサついたパンを捨てたことについては、不可知論者にとっては何気ない行為だったが、カトリックの男にとっては、意味のある思い出に繋がった。それは「丸いパン」だったからかもしれない。
少年時代の思い出を語った男は、棚から荷物を下ろすときに神父の襟を見せた…。この神父は「幸福」だった、というのが小説の最後だ。これは、とても良い話だ。神父は、自らの出発点をくれたとして、悪魔の化身のような男に感謝をしている。
他にもこの話には見どころがある。パン屋の主人が何故、カトリック信者を憎んでいるのか、それには「信じているからこそ、憎むことができる」という話もあった。「愛」の話も少しだけあった。それでも、今回は「罰がない罪」に焦点を当てた。
「その神父がとても幸せそうに見えた」—私は、神父の幸福を素直には受け入れられなかった。自浄作用がない状況の中で、多くの被害者を残したままの「幸福」、この「良い物語」のラストすら違和感を与えるのが、現在の残念な社会の実態だと思う。
人は多面的であり、善悪という二極ではなく、中間の葛藤があるものだが、それを踏まえた上で「聖なるもの」と位置付けられた法や秘跡は、聖書をはじめ、教導書や秘蹟などは全て、主とイエス、聖霊の名を使って作られたものである。たとえカトリックが「真」でなかったにしても、私たちはイエスの名前を語りながら体系を作っている。だから、もっと行動による責任を重んじるべきではないかと思う。
「説明のヒント」に登場する不可知論者にとって、退屈凌ぎに話すことのできた男との出会いは、土地に広げられたレールの上での「幸運」(lucky)だった。もしかしたら、神父の少年時代も偶然の「幸運」の積み重ねに過ぎなかったのかもしれない。
最後に原題は「THE HINT OF AN EXPLANATION」だが、「説明のヒント」と日本語に訳してしまうと、少々ピンと来ないのかもしれない。これだったらどうだろうか。説明にはExplanationとDescriptionがある。Explanationは口頭で遅れた理由などを説明する際に使い、Descriptionは、説明書きなどを意味する。「聖なるもの」というのは、たとえ説明が充分でなかったにせよ、「対話」するようにしなければならないのではないのだろうか。イエスが人々の所に行ってなさったように、Communion(聖餐式)は交流や交わりを意味する。
この物語の神父は、不可知論者と対話している、その愛があるからこそまた「幸福」なのだろう。それでも忘れてはならないのは、一人の神父の「幸福」は世界の全てでない。この神父も世界に立っている小さな存在だ。私たちがもっと意識すべきは、不条理な処遇がトンネルの暗闇であるのなら、そのトンネルを抜けた後の世界を作ることではないだろうか。
*偶有性について
アリストテレスのendekomenonに始まり、トマス・アクイナスが展開。その後、様々な哲学や神学でも展開されるので、短く纏めることは容易ではない。
トマス・アクイナスは、実体は偶有の感性的認識を通し、また、それを超えて「知性によって認識」するとした。偶有は感性に、実体は知性に属するもので、パンの実体がキリストの体に変質することは、偶有が依然として我々の眼に感性的に同じものとして訴えることと、何ら矛盾しない。実体変質の後に、偶有を感性的に認識し、キリストの体という実体を認めるのは、信仰である、としている。
アドルフ・フォン・ハルナックはプロテスタント神学者として、 トマス・アクィナスの「キリストのからだがパンに偶有性として、消滅するまで現存するのであれば、偶像崇拝ではないか」 と異論を述べていた。しかし、ハルナックが犬に「 過ちで食されるのか」、もしくは「サクラメントとして食されるのか」、 それでもイエスは現存するのか、と喩えたことについて、この「THE HINT OF AN EXPLANATION」は答えたようにも思えた。
(Chris Kyogetu)
投稿ナビゲーション