・Chris Kyogetuの宗教と文学 ⑭夏目漱石の「こゝろ」からみる愛と義 

 「しかしそれは特色のない唯の(ただの)淡話だから、今ではまるで忘れてしまった」「先生はまるで世間に名前を知られていない人であった」(夏目漱石「こゝろ」より)

 あらすじ:『こころ』は「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の3部構成である。若い「私」は海で「先生」という人物と出会う。まだ大して人を愛したことのない「私」に、先生は恋愛の罪悪と神聖さを説こうとするが、当時の「私」には理解できなかった。先生は過去を話すことを約束する。「私」の父親が死の間際だというのに、先生の手紙を受け取ると、父の元を離れて東京行きの列車に乗り、そこで先生の遺書を読む。遺書には、先生と奥さんの過去、そして幼なじみのKを助けるために連れてきたことが書かれていた。しかし、愛する女性を巡って先生はKを裏切り、お嬢さんとの結婚を勝ち取る。Kの自殺がその結果として起こる。物語は、明治天皇の崩御と乃木大将の自決という新時代の混乱と期待の時代背景とともに描かれている。

1 はじめに

 日露戦争の勝利に胸を熱くする現代人は少ないだろう。しかし、明治天皇の崩御と乃木大将の自決が当時の日本人と文学に与えた影響は計り知れない。夏目漱石の『こゝろ』の先生もまた、乃木大将の死の後に、自ら命を絶った。
 語り手である若い書生だった「私」は、鎌倉の海の掛茶屋にいる西洋人を連れている男と出会う。その男を「私」は、「先生」と呼ぶことにした。もしも読者の貴方が、十代そこらで何も知らずにこの本を手にしたら、乃木大将のことなどはあまり考えないだろう。まずは、この「先生」と「私」という書生の饒舌な語り口調にとりあえず吸い込まれるのだと思う
 漱石は巧みに、序盤で「私は寂しい人間です」と先生に語らせ、孤独な十代の読者を浜辺から、少しづつ「死」への深海へと誘い込むのかもしれない。それは生命の終わりを単純に意味するだけではなく、忠誠ということは何か、義とはなんだったのか、自死への謎、死生観というもので、言葉がうまく回らずに藻掻かせ、喪というものは、生きている者でしかできないという事を覚え、一旦は読者を現実世界に戻すのかもしれない。きっと読後はそのような気持ちになるだろう。
 そこに、いつの時代でも、若くても「愛」の証を人は求める。だからこの話は巧妙なのだ。「先生」は恋愛をあまり知らない「私」にこう語る。「しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか?」と。「先生」のところに吸い寄せられるように来たのは、この若い青年が人を愛したいからであり、とっくに恋で動いているからであり、それの準備段階(恋に上る階段)なんだと先生は言った。そうすることによって「私」と読者は同じ立ち位置に来ることになるのだ。
 それで、手筈は揃った。ここから、読者は先生の「遺書」編へ下っていくだけなのだ。この小説は「先生と私」「両親と私」は若い書生の語りであり、「先生と遺書」の章で先生の若い頃に遡ることになる。先生は、両親が病気で亡くなり、叔父が横領し、人間不信となっていた。ここで先生は一つ、金が人を変えるということも言っている。その後に実家を処分し、両親の墓だけを残し、故郷には戻らないと決め、東京帝国大学へと進学し、若い頃に軍人の未亡人の家に下宿しに行った。その時のお嬢さんである「静」に対して、異性の香りがしたと記している。そこで奥さんと静さんに大事にされ、一番良い部屋を用意してもらっていた。
 疑い深かった彼は、そのうち彼女らの優しさに安定するようになり、静に対して、愛情を持つようになった。それは、性愛というよりも「信仰」に近いものだった。彼はお金に対しては疑いがあったが、「愛」に関しては希望を持ち疑わなかった。彼にはKという幼なじみがいた。お寺の息子だったが養子に出されて、医学部で医者になることを条件に大学に行かせてもらうことになっていたが、Kは「精進」という精神性と医学が噛み合わないと思っていたので、医学部ではない大学に進んでいたが、段々と嘘をつき続けることが辛くなり、養子先に本当のことを話した。
 当然ながら、Kは勘当される。学費も底を尽き、神経衰弱になっていくKを先生は同情し、自分の下宿先へと連れてきてしまう。Kは仏教徒の影響もあって、真面目で誠実な男だった。だからこそ、だんだんと静と仲良く話していることを疑うようになった。そして、Kはやはり静を好きになったと先生に告白をした。

 先生は、長年の幼なじみへの忠誠心や友情よりも、静が欲しかった。それで、彼は静に直接告白もせずに、彼女の母親にお嬢さんと結婚したいと申し出た。先生と、静の結婚が決まったが、彼はKには一向に言えなかった。しかし、とっくに彼女の母親がKに結婚の話をしていたのだった。Kはそれを知りながら、先生と話を普通にしていたのだ。

 そしてKは自殺した。

2 死と義

 「死」というものは、私達の意見を問わない。しかし、魂は私たちに語りかけては問いかける。Kのような取り消しえない一方的な「死」というものは、アドラー心理学でいうところの「復讐と告発」だったのか、それともプライドの高いハムレットが思い止まった「自殺」を遂行したのか、もしくはペレアスとメリザンドのメリザンドのように、小鳥でも死なない傷による死だったのか、Kは遺書を残して死んだ。
 先生は、サロメがヨカナーンの頭部を抱えるように、Kの死に顔を見ようとした。死を見つめるということは、ブッダの死を看取ったアーナンダがいたように、仏教にとっては重要なことだが、おそらくそういう意味で死に顔を見てはいないのだろう。終始、彼は義も礼も果たせなかったのである。先生にとっては残された遺書をKの本心だと思えなかった。遺書の内容から汲み取るだけなのなら、「自分は薄志弱行で到底行先の望みがないから、自殺する」というだけの内容だったが、先生は、Kの墨の余りで書き添えたらしく見える「もっと早く死ぬべきだったのに」という言葉を見つけてしまう。あたかも、遺書を通して、魂が「お前のせいだ」と、そう語っているかと思えば、敢えて書かれなかった事実によって、先生は自尊心が保てなかったのかもしれない。
 先生にしか聞こえなかった言語があったように、その死がずっと生きながらも首を絞めていた。乃木大将と重ねること自体が烏滸がましいことも分かっていて、違うからこそ、先生は自分の存在を無価値のように思いつづけていた。アーナンダはブッダの教えを後世に残したが、先生はKの死を、誰にも残せる術がなかった。ずっとそうだったが、迷い込んだように現れて、たった一人の書生に「遺書」として残すことにした。結婚した静でさえも、なぜ親友のKが死んだのか、その理由を知らなかった。その彼女の残された無垢な疎外感が、無常だったが、その中でも、たった一人だけの希望が残されていた。それこそ最後に列車に遺書を読んでいる若い書生の「私」なのかもしれない。そのことによって、漸く先生は、無名の存在から「師」となれたのかもしれない。

 日本語の「言葉」の語源は、神と共にあった(ヨハネによる福音書1章)のではなく、言=言の端であるという。日本の伝統にはキリスト教のような超越神は元々は存在しないことを意味している。それは闇の中から、絶対的な自立するような絶対者が存在しないということだ。
 それでも、西田幾多郎は日本の根底には、「形なきものの形を見、声なき者の声を聞く、といったようなものが潜んでいる」ともしたように、平家物語や曽根崎心中のように滅びゆくものや、移ろいゆくものを愛して美しいと思う文化がある。
 よって、夏目漱石を語る際は、このように現在あるものが知的に限定することのできない意義を持つことや、形なきもの、声なきものが意味することを踏まえて日本文学として捉えることが望ましいのかもしれない。
 確かに、目に見えないもの、声にならないもの、それを捉えようとするところはキリスト教と似ているところであるが、超越的な神を捉えようという点においては、表現のできない言語の壁があることは、キリスト教関連の翻訳をしていると常に感じていることである。しかし、それによって「違い」を「悪」としないことが、私は重要だと思っているし、海外が特段に優れているとも思っていない。(現に海外でも信仰心が薄まっているので)私たちは無いものを取り入れることであり、神に撒かれた種であり、それによってより日本人としての核を確認しなければならないと思う。
 むしろ、あちら側から見れば闇であるところの美を知っているということや、深淵をすでに私たちは知っているのかもしれない。私は、平家物語の八歳の安徳天皇と尼が後入水の悲哀の美しさを知っていることを誇りに思っている。その死は、何を伝えようとしているのか、時が忘却と共に過ぎ去っていくことを知らせている。大阪の曽根崎の神社に何度足を運んだが、心中した男女が何を思ったのか、その痕跡も残っていない。それは、その時に栄えた熱気は、どこにも残らないという現実を知らせている。それは美学と言える。
 死というものは、私達の意見や望みを考えずにやってくる不可避の出来事である。愛は個々人の感情や価値観によって多様な形をとり、時には罪悪感や葛藤をもたらせる。このように死は客観的に変わることでない存在である一方、愛は主観的に握られ、変化するものである。「こゝろ」には各々が背負った罪があり、Kにも医学部と偽ってきた罪や、そして自ら死を選んだというハムレット的な罪があった。先生がいつから罪を告白しようと思っていたのかどうかは、分からない。

 ここで、最後にルカによる福音書の18章9節から14節の話をして終わりにしようと思う。ファリサイ派は常に自分は正しいと思っていて、心の中でこのように祈った。「神様、私は他の人たちのように、奪い取るような者、不正な者、姦淫する者でもなく、また、この徴税人でもないことを感謝します… 」。それに対して、徴税人はこのように祈った。「神様、罪人の私を憐れんでください」。 イエスは、悔い改めた徴税人を「義」とした。

 先生の遺書の終盤は、明治天皇の崩御と、そして乃木大将の自殺について触れていた。彼は、乃木大将が生きながらに自殺を考えていた年げつを数えようとした。しかし、結局のところ先生は乃木大将の自殺する気持ちがわからなかった。そして自分自身の死を誰も理解できないだろうと遺書に残した。この一人称と三人称の死について、哲学者ジャンケレヴィッチは、死を一人称の死、二人称の死、そして三人称の死としたが、この話は、自殺を含め全ての死を描いている。
 二人称の死については、ユダヤ人の聖職者グロルマンは「私」の過去・現在・未来を奪うことがあるとしている。先生もまた、Kの死によって奪われてしまったのかもしれない。私たちにとっては、明治天皇の死も乃木大将の死も、三人称であり心的距離が遠い存在だが、それでも、漱石は「こゝろ」を通して、人間の内面の複雑さを映し出していた。先生の孤独や罪悪感、そして愛への希求は、時代背景が変わっても人間の本質は変わらないことを示している。明治時代という一つの時代そのものが、大きな変革期であり、人々の意識や価値観も大きく揺れ動いていた。
 その中で、嘗て武士道の道徳であった「義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義」を先生は何一つ果たせなかったようだ。結婚した手に入れたお嬢さんですら、彼は大切にはできなかった。現代の価値観で言えば、なんて身勝手なのだろうと思う。彼は働きもせず、資産だけ持っていて、奥さんに財産が残せると死んでしまった。
 彼は、この世で「無名」を生きているような存在だった。それが現代にとって、予言的にその「浮遊」した存在が遠い昔の人間のように思えない。なぜなら、存在意義や社会的責任がなんなのか今でも多くの人々にとって明確ではないからである。そして「恋は罪悪ですよ」という印象的な言葉は、明治天皇の崩御とともに自殺をした乃木大将に対し、恋ですらも義を果たせない「こゝろ」の在り方を表している。
 私はここで先生が徴税人のように、罪を自覚をして悔いあらためたと繋げるつもりはない。先生の「死」はそういったものではないのだ。Kへの義や、明治時代という終わりへの殉死ということを目指したようにも思えるが、明治天皇と乃木大将のようなものでもないことを充分に彼もわかっていた。妻にもKの話ができない彼は、一人迷い込んだような青年に自分の人生を書き残した。それは、跡形も残らない美学への最後の抗らいだったように私は思える。
 この抗らいこそが、最終的に美しいのだということを、この文学は伝えている。「恋は罪悪ですよ」と言いながらも、先生は青年に人を愛すことを諭したままだった。この話がよく表しているのは、謝罪したい対象が消えてしまうことである。
 よく多くのキリスト者が勘違いしている、「神に謝罪をすれば良い」ということなら、高みにいる気分になっているファリサイ派と同じなのである。あの箇所は、義を尽くせなかったものをイエスは望んでいない、と捉えるべきではないだろうか。先生は終始、卑怯だった。妻も残して自分のことばかりしか考えられない人だった。それでも、如実に表したのは、形あるものは全て消え去ってしまう、ということである。

3 現代の「こゝろ」とは

 現代のカトリック教会が抱える問題において重要なのは、「被害者の訴えに耳を傾けること」だが、たとえその被害が何十年前の出来事であっても、私たちはそれを軽視してはならない。謝罪を求める声は、共同体にとっては神と対話するためのものであり、優しさと理解を持って応じるべきだ。聖職者も、信者からの「批判」は回心の機会として受け入れるべきだろう。

 「こゝろ」の登場人物たちは、一人称から二人称、三人称へと愛と死が交差する中で描かれているが、本書と読者の関係にも第三者としての「共感」が重要だった。経験が伴う時もあれば、経験ではなく想像であったとしても、心を通わせなければならなかった。しかし、現実のインターネットではそういった第三者の言葉を共感するということが、必ずしも正しく受け取られない時代となった。

 かつて私は「私刑」を「mob justice」と訳したが、当時は誤訳とも思われたかもしれない。しかし、最近の事件や世論を見ると、これは間違いではなかったと実感している。日本ではカトリックに関心が薄いため、mobによる制裁は行われていないが、「学校の先生」が同様の行為をしていた場合、すでにmobによりネット上で身元や顔写真が明かされて「私刑」に遭っている。

 SNSの普及により、他者の死や痛みが身近に感じられる一方で、同情を装ったmobの暴力性が問題となっている。インターネットで仕事をしている人は、この暴力性を「トラフィック」という視点でしか見なくなっていき、将来的には、AIが不適切な投稿を制御する可能性があるが、誰か中心的な存在が、自制を求めることは不可能になっている。

 現代は、自分と他者を切り離して考える必要性が問われている。戦争や災害に関する情報もフェイクが混じるため、真偽を確認することが困難になった。被災者への同情の言葉が逆に傷つける場合もあり慎重さが求められ、誰かの「死」を知り、遺族に優しい言葉をかけたつもりが、誤解を招き誹謗中傷と捉えられた事例も存在する。このような中で、自制できる人は第三者と距離を置くことを学ぶようになるが、そうでない人はmobの一員として暴力を行使し続けていく。

 カトリック信者が困った末に、このようなmobの力に頼ることがないように、一同は過去の罪を認め、教義や教会法を見直し、自制と自戒を率先することが重要であると私は思う。この夏目漱石の「こゝろ」の先生が過去に苦しめられていたように、被害者の声を尊重し、過去の出来事を持ち出すことがいかに苦しいかを、理解していくこと、少なくとも私たちは、隠蔽に加担してはならない。

 先生を苦しめたKの影のように、私たちは良心を持ち続けることが大切なのだ。何故なら、心とは善悪の区別もつかない深淵があり、イエスが「義」ではないと指しているものがあるのだから。

 皆さま、自分の人生と大切な人への感謝を忘れないように。

*ハムレット的な死―ハムレットは父親の代わりに王位についた叔父とその妻になった母の不道徳に嫌気がさして自殺をしようと思うが、信仰があるが故にできない、というシーンがある。

(Chris Kyogetu)
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2024年6月6日