・Chris Kyogetuの宗教と文学⑮ 洗礼を受ける前、私は夢で「10人のおとめ」の1人になった 

 

 2014年の8月に私は洗礼を受けたが、その前にある夢を見た。

 眠る前に、新約聖書のマタイによる福音書の25章にある「10人のおとめ」のたとえを読んでいた。その時は、集中力がなかったのか、表面だけをなぞったようで、おそらく話の内容を把握できなかった。登場人物ですらどうだったのか、眠気もあったので頭に入っていないなと思ったし、そういうことは誰にでもあるとは思う。ただ何気なく読んで、本を閉じた。おそらくこれが現代文のテストであったのなら致命的だったかもしれない。それぐらい分かっていなかった。明日、読み直そうとも思わなかった。特にそんなことも考えず、ポストイットに「マタイの25章」と最後に読んだ箇所だけを書き残して机に貼って、そのまま本を閉じて眠りについた。

 気がつくと、身体が重たいような感覚があったが、夢の中で、眠っていたのを起こされていて、一人の男の人に日本語かどうか、どこの国かもわからない言語で、腕を掴まれながら「持っているか、持っていないか」と問われた。自分の持っていたランプが消え掛かっているので、持っていない気もしたけれども、ここに来る前に、家に油を取りに帰って持ってきた記憶があった。一緒にいた隣の女性はそれを笑ったが、だんだんと、私は持っていたような気がするとも思うようになっていて、「持っている」と答えた。

 そうしたら本当に、私は油を持っていて、ランプに灯りをつけた。その瞬間の麦畑のような、夜空の下で明かりが灯る瞬間だけ、今でも記憶している。もう10年も経った事なので、その記憶に補正がかかっているのかも知れないが、夜空が不気味なようで、でも、灯りがついた瞬間に「命拾いをした」という安堵感があった。

 「お前も入れ」と言われて、他の賢いおとめたちと、花婿と一緒に、私は祝宴の会場に入った。すると、後ろで油を分けてもらえなかった愚かなおとめたちが数人、門から入れずに「影」となった。それで、夢の中で思った。「あぁ、いつも油を持っていないと いざという時に助からないんだな」と。助かった高揚感と、そして残された「影」が気になって、胸が痛くなった。

 起きてみて、それが不思議な夢だったのだ、とは思ったものの、すぐに日常に溶けていった。そしてまた聖書を読む時間になり、ポストイットに書き残した箇所を見て、それが昨晩、寝る前に読んだ聖書の「10人のおとめ」のたとえだ、ということに気づいた。しかし、あの時、眠る前は、一切、話なんか分かっていなかったはずだった。でも、再度読んでみると、ほとんど、夢の通りだったのだ。理解がより深まったはずなのに、それから夢に出てくることはない。

 夢というものはその出てきた他者と繋がっているはずがない。たとえ、それが現実の記憶に沿っていて事実であったとしても、夢とは「他者と共に時間を過ごした」というわけではなく、私の「印象」だけが見せる物語だ。

 意識では把握できないもの、無意識は、本当にあるのか。それは心理学でも学派によって否定もされたりもするが、もしもこれが無意識でなければ、説明がつかないと思う。そして神秘体験はさらに深いところにある。一時期は、その経験から旧約聖書の創世記ではファラオの夢を解いたヨセフや、夢解きののダニエルが出てくるダニエル書があるのに、新約聖書には何故、イエスが来るようになって夢解きがいなくなったのか、という持論を純粋に語った時期もあった。

 しかし、思い返せば、共感はさほどされず、それすらも若さに思えるように、もっとそういった「不思議」だけでは生きられないのもまたキリスト教だと知った十年間だった。語ることすらも、馬鹿らしい日もあった。

 それでもこの夢の記憶が尾をひいていて、「神秘」の可能性だけは残していた。「奇跡」を体験した、それだけでは伝道にならないということを知っていく十年だった。私の喜びと、そして、そんな夢を見たのに「幸福」とも言えなかった時と、そして今だから、やはり「確かなものがある」と思えることがある。奇跡は、語れる機会も重要であって、この話は温存しておくとしている。

 重要なのは、日々の生活の中で取り組むべき実践は、イエスが人々の元へ渡り歩いた労苦であり、イエスの教えの実践である。「父と子はお互いを純粋に与え合い、純粋に引き渡し合う運動です。この運動において、両者は豊であり、その結実は両者の一致であり、それは完全に一つです」とベネディクト16世教皇が三位一体をそのように語り、「三位一体の神秘はこの世にあっては、十字架の神秘に翻訳されなければならない」とした。

 だが、この美しさは、苦しみもある、ということだ。豊さゆえに現れる聖霊というのは、人間の喜びだけではない、ということも常にある。神秘を語りたい、どこか聖書の話をできる人はいないか、と探す信者は多いと思うが、いたらいたで、楽しさだけでは成り立たないのは、相手に壁があるからではなく、三位一体そのものを共感することは非常に困難だからである。

 経験したことが各々の「夢」でしかないように、「他者」へと繋がりを持つことは、簡単な面もあるが、深くなることは容易ではない。宗教の語り合いについて、私は苦しみも引き渡し合うことだと思うので、最近はあまり求めなくなった。人の不幸を安易に聞くことは怖いことだ。

 信仰を理解し合うこと、それをどこまでできるのか、簡単にはできないことぐらい分かっている。それが正常な判断だと思う。生い立ちも、運命も違う人同士の中で、それらを語るのは苦しいこともある。自分の想像以上の不幸をいかに一致させられるのか、それは苦しいことではないだろうか。

 安易に、「言葉」一つで救えることはない。一つの姿勢が救う一歩になるのかもしれないが、常にそれらの可能性は不透明だ。イエスが人助けをすることについて、心地よさだけで語ることには「嘘」がある。自分の苦しさだけを語ることは驕りでもある。現実は、他人の奇跡なんかでは救われない。お互いの貧しさと貧しさの一致は、非常に苦しいものがある。しかし、各々は,「おとめ」のように眠っているようで、常に信仰は生きている。だからこそ、常に燃料がいる。名も知られていないおとめと花婿、一緒に祝宴に入れる(マタイ25章10節)のか、その日まで、分からない。

 あの夢を十年前は「良い夢だった」と言っていたが、今年同じく「良い夢だった」と思うことは抱いている心が違う。そしてまた十年後、「良い夢だった」と言ってる時には、どんな自分になっているのかは想像できない。

(Chris Kyogetu)

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2024年7月1日